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ダイガクコトハジメ - 森有礼 - 大学の始まり物語

森有礼
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森有礼

 

年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約3,000文字(読了目安:5-10分程度)​

「近代日本の国家教育の礎を築いた初代文部大臣」

森有礼の大学”始まり”物語

序章 黒船の衝撃と実力への目覚め

 1847(弘化4)年、薩摩藩鹿児島城下春日小路町で、薩摩藩士・森喜右衛門有恕の五男として森有礼が生まれる。彼が幼少期を過ごした時代は、200年続いた江戸幕府の鎖国体制が限界を迎えつつあった時期と重なる。1853(嘉永6)年7月、ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が浦賀に来航。有礼が7歳の時である。大統領国書を携えた黒船の威容は、日本全土を震撼させ、国家存亡の危機を伴う幕末の動乱を引き起こした。


 1863(文久3)年、17歳の有礼は歴史の転換点を自ら目の当たりにする。薩英戦争である。薩摩藩はイギリス東洋艦隊と交戦、最新鋭のアームストロング砲の圧倒的な破壊力の前に市街地を焼失する。現実的ではない攘夷、西洋列強との絶望的な国力差。これを直視した薩摩藩は、排外主義から一転、西洋から学び富国強兵を図る方針へと大きく舵を切る。翌年、有礼は藩に新設された洋学校・開成所に入所、英学を学び始める。現実の軍事力と科学技術の差を埋めるための実学への渇望。これが、のちに日本の近代教育体制を構築する男の原点となる。
 

第一章 海を渡る若者と啓蒙の光

 1865(慶応元)年、19歳になった有礼は薩摩藩第一次英国留学生に選出される。国禁を犯しての密航によるイギリス留学である。ロンドン大学ユニバーシティカレッジに聴講生として通う中、同じく密航で海を渡っていた伊藤博文や井上馨ら長州五傑と出会う。後に明治新政府の骨格を創り上げる若者たちの、異国での邂逅である。


 有礼の探求はイギリスにとどまらない。ロシアを視察、さらにはアメリカへ渡る。新興宗教の教団と生活を共にして精神性を探り、同時にアメリカの教科書を熱心に収集する。圧倒的な物質文明を支えているのは、国民一人一人の知的水準を引き上げる教育の力に他ならない。そう確信したのである。


 1867(慶応3)年、大政奉還によって江戸幕府が崩壊。翌1868(明治元)年に明治新政府が樹立されると、有礼は帰国して新政府に出仕する。外国官権判事や学校取調などの要職を歴任した後、1870(明治3)年、24歳で少弁務使として再びアメリカに赴任する。在任中、有礼は日本国駐米外交官として、アメリカの大学学長や教育者に日本の教育問題に関する諮問を行う。その回答をまとめ、『日本の教育』として刊行。国家のグランドデザインを描く上で、教育の制度設計がいかに急務であるかを発信したのである。


 1872(明治5)年、26歳となった有礼は、極端とも言える提案をアメリカの言語学者ウィリアム・ドワイト・ホイットニーに送る。不規則動詞を規則化して簡略にした英語を、日本の国語にするべきではないかという「国語外国語化論」である。ホイットニーからは否定的な見解を示されるが、この逸話は、西洋との圧倒的な文化の差に直面した有礼が、いかに切実な危機感を抱き、急進的な欧化を模索していたかを如実に物語っている。


 1873(明治6)年、27歳で帰国した有礼は行動を起こす。富国強兵のためには人材育成が急務であり、国民が知的に向上せねばならない。彼は欧米で見聞した「学会」を日本で実現すべく、福澤諭吉加藤弘之西村茂樹ら名だたる知識人に働きかける。日本初の近代的啓蒙学術団体「明六社」を結成、初代社長に就任。機関誌『明六雑誌』を発行する。開化期の日本において、官民の垣根を越えた知識人の連帯を生み出し、近代思想の啓蒙において指導的な役割を果たしていく。
 

第二章 建学への挑戦と国家への眼差し

 啓蒙活動を牽引する一方で、有礼は実業界における教育の欠如という深刻な壁に直面していた。当時の優秀な若者はみな立身出世を求めて官僚を目指し、商売は卑しいものという江戸時代からの身分意識が根強く残っていた。しかし、近代国家を動かすのは高度な商業知識を備えた民間人材である。


 1875(明治8)年、29歳の有礼は商業教育の必要性を唱え、渋沢栄一福澤諭吉らの協力を得て東京銀座に私塾「商法講習所」を創立する。後の一橋大学の源流である。当初、有礼は官立の商業学校設立を目指し政府首脳の了解も得ていたが、資金不足により挫折。東京会議所会頭であった渋沢に援助を願い出て、民間の力による私塾としての開校に踏み切ったのである。


 同年11月、有礼は清国公使を拝命、私塾の経営から離れることとなる。彼は経営を渋沢や益田孝らに託し、翌年には矢野二郎が所長として後を引き継いだ。その後、管轄の変更や東京府会による経費支出の拒否など、幾度となく廃校の危機が訪れるが、渋沢らの奔走と農商務省の支援により辛くも存続を勝ち取る。有礼が蒔いた種は、官民の有志の泥臭い努力によって守り抜かれたのである。


 外交官として清国やイギリスに駐在する間も、有礼の眼差しは常に日本の国家設計と教育に向けられていた。1882(明治15)年の夏、36歳の有礼は特命全権公使として滞在していたヨーロッパで、憲法調査のために渡欧中であった伊藤博文と面会する。


 「日本の発展・繁栄のためには、先ずは教育からこれを築き上げねばならない」。


 有礼が披歴した国家教育の方針は、近代的な内閣制度と憲法の制定を構想していた伊藤に強い感銘を与える。伊藤は有礼の思想に国家百年の計を見出した。文教制度改革の適任者は有礼しかいない。伊藤の強い要請により、有礼は日本への帰国を命じられることとなる。
 

第三章 国家教育の確立と魂の継承

 

 1884(明治17)年、38歳で帰国した有礼は、日本の教育制度全般の改革に着手する。国家至上主義の教育観に基づき、列強と対等に渡り合うためには国民の志気を培養発達させることが根本であると説いた。


 翌1885(明治18)年12月、太政官制度が廃止され、伊藤を初代総理大臣とする内閣制度が発足する。39歳の有礼は、この第一次伊藤内閣において初代文部大臣に抜擢される。「諸学校を維持するも畢竟国家の為なり」。国体教育主義を基本方針に掲げた男による、怒涛の文教政策の幕開けである。


 1886(明治19)年、40歳となった有礼は教育の総本山として師範学校の改革を断行する。陸軍軍人の山川浩を校長に据え、徹底した軍隊式教育を導入して規律と秩序を重んじた。同時に「帝国大学令」・「師範学校令」・「中学校令」・「小学校令」という一連の学校令を矢継ぎ早に公布。初等から高等教育に至るまでの体系的な学校制度を、国家の法令として初めて確立したのである。

 

 特筆すべきは、有礼が伊藤と二人三脚で推進した高等教育改革である。有礼は、それまでの「東京大学」という名称に代わり、国家の命運を懸けた最高学府に「帝国大学」という新たな名を冠した。当時「帝国(Imperial)」という言葉は、欧米列強と肩を並べる近代国家としての強烈な自負を内包する聞き慣れない単語であり、人々に強い違和感と、時代が完全に切り替わったという圧倒的な新規性を突きつけた。


 帝国大学令では、大学を単なる学問の場ではなく「国家の須要に応ずる学術技芸を教授し其蘊奥を攻究する」機関と定義、立憲国家の骨組みを作る伊藤の憲法制定と呼応するように、国家運営を担うエリート官僚の育成という目的を明確にした。翌1887(明治20)年には「学位令」を発布して博士の制度を導入、さらに文官試験と連動させて、私立法律学校を帝国大学総長の監督下に置く特別認可制度を設けた。有礼が構築したこの強固な中央集権的教育システムは、その後数十年にわたり近代日本の発展を支える絶対的な基盤となる。


 しかし、その急進的な改革と欧化主義的な振る舞いは、やがて保守派や国粋主義者の激しい反発と憎悪を生む。同年に起きた伊勢神宮不敬事件において、社殿の御簾をステッキでどけたと報じられた大臣が有礼ではないかという疑いがかけられ、これが後戻りできない悲劇の引き金となる。


 1889(明治22)年2月11日、日本初となる大日本帝国憲法発布の朝。43歳の有礼は、式典に向かうため官邸を出た直後、国粋主義者の凶刃に倒れる。翌12日、死去。


 憲法という国家の骨格が産声を上げたその日、盟友・伊藤と共に国家の精神たる教育の骨格を築いた男は非業の最期を遂げた。だが、彼が身を挺して構築した教育の体系は微動だにしなかった。有礼が創立を支援した商法講習所は、高等商業学校を経て東京商科大学(現・一橋大学)へと結実し、帝国大学は近代国家の中枢を担う人材を無数に輩出することとなる。

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