ダイガクコトハジメ - 木下広次
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木下広次
きのしたひろじ
1851(嘉永4)年2月25日(旧暦・1月25日) - 1910(明治43)年8月22日
東京大学法学部教授、帝国大学法科大学教授、第一高等中学校校長、文部省専門学務局長、京都帝国大学初代総長、京都法政学校(現・立命館大学)創立協力、貴族院議員、錦鶏間祗候
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1851(嘉永4)年2月25日(旧暦・1月25日) 木下広次(1歳)、肥後国飽田郡坪井(現・熊本県熊本市)に熊本藩儒・木下犀潭の四男として生まれる。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
明治新政府の布告により、開成所と医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。
1868(明治元)年10月27日(旧暦・9月12日)、開成所を開成学校に改称。洋学教育・翻訳・出版許可・新聞開版免許の公布を担当する政府機関の役割も果たす。
1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想
明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校を大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校を大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。
1869(明治2)年 版籍奉還
諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。
1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立
明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校・医学校を分局とする大学校(東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。
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1870(明治3)年1月18日(旧暦・12月17日)、大学校を大学と改称。昌平学校を大学本校に。大学本校の南に所在していた開成学校は大学南校(だいがくなんこう)、東に所在していた医学校は大学東校(だいがくとうこう)と改称。
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1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に。大学本校は当分休校とされ、再開されることなくそのまま廃校となる。昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす。改めて明治新政府は大学南校を中心とする大学構想に舵を切る。貢進生の制度を定め、諸藩から俊秀な人材を選抜、大学南校に入学させる。欧米の学問文化を学ばせ、国家の指導的人材の養成を図る。
1870(明治3)年7月27日 貢進生
太政官布告、富国強兵・日本の近代化を目的に、諸藩に対し石高に応じて1名から3名の優秀な人材を大学南校に推薦・貢進することが命じられる。総数318名に。御雇い外国人より英語・フランス語・ドイツ語を学ぶ。1871(明治4)年1月段階で、英語219名、フランス語74名、ドイツ語17名。更に成績優秀者をイギリス・フランス・ドイツ等の外国へ留学させる。
1877(明治10)年の東京大学成立以降、順次卒業生を輩出、貢進生はその第一期生を構成。その他、フランス語を学んだ者の一部が司法省法学校に転じたり、他の高等教育機関に転校、卒業を待たず政府に出仕した者も。
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1870(明治3)年 木下広次(20歳)、熊本藩貢進生として大学南校入学。
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1871(明治4)年7月、司法省設置。刑部省と弾正台を廃止。初代司法卿に、江藤新平。
1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク
大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校と大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。
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1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、南校にて文部省主導による貢進生廃止など制度改革。一時閉鎖、翌10月に再開。外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となったが、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた。
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1872(明治5)年 - 1873(明治6)年、司法省顧問としてジョルジュ・ブスケ、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードが来日。司法省明法寮教員に。フランス語による本格的な法学教育を開始。
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1872(明治5)年 木下広次(22歳)、司法省明法寮転入学。ボアソナードの下、フランス法学を学ぶ。
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1875(明治8)年 - 1882(明治15)年 木下広次(25-32歳)、司法省明法寮を卒業しないまま、フランス留学。パリ大学法科入学。1879(明治12)年に卒業、法律学士・法学博士の学位を得る。1882(明治15)年まで研学。
1881(明治14)年4月12日 東京大学機構改革、総合大学誕生
東京大学法学部・理学部・文学部三学部と東京大学医学部を名実共に統合、4学部を有する総合大学が誕生。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった東京大学法・理・文三学部は、1885(明治17)年にかけて東京大学医学部に隣接する本郷新校舎に移転。
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1885(明治18)年9月、東京大学法学部が東京法学校を併合。東京大学法学部仏法科設置。
1886(明治19)年3月2日-4月10日公布 学校令
教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。
1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学令
高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。帝国大学初代総長に渡辺洪基を勅任。
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1886(明治19)年 木下広次(36歳)、帝国大学法科大学教授に。
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1886(明治19)年、学校令により、「高等中学校」の制度が成立。東京大学予備門は、第一高等中学校に。高等中学校は文部大臣の管理に属し、全国を五区に分け、各区ごとに1校設置することが定められる。第三高等中学校(京都)・山口高等中学校・第二高等中学校(仙台)・第四高等中学校(金沢)・第五高等中学校(熊本)・鹿児島高等中学造士館が設立され、全国に7校の高等中学校が誕生。第一高等中学校だけでなく、全国の高等中学校の卒業生が帝国大学へ進学する制度に。
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1889(明治22)年8月、第三高等中学校、新校地・京都吉田への校舎移転完了。
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1891(明治24)年12月22日 木下広次(41歳)、貴族院議員に勅選。
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1893(明治26)年6月 木下広次(43歳)、井上毅文相の下、文部省専門学務局長に。高等教育改革を推進。
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1893(明治26)年7月 中川小十郎(28歳)、帝国大学法科大学政治学科卒業。農商務省入省を希望、東京大学予備門の恩師・木下広次に同省次官・斎藤修一郎を紹介してもらう。態度に憤慨、断り。木下広次の文部省専門学務局局長就任を機に、文部省入省。専門学務局局にて実業教育普及のため学科取り調べに着手。
1894(明治27)年6月25日公布 第一次高等学校令
1886(明治19)年の中学校令に基づいて設立された高等中学校について、「高等学校」に改組すること主な目的とする勅令。文部大臣・井上毅が主導。改組により、第一高等学校(東京)・第二高等学校(仙台)・第三高等学校(京都)・第四高等学校(金沢)・第五高等学校(熊本)が誕生(総称してナンバースクールと呼ばれる)。
専門学科(法学部・工学部・医学部など)を教授することを原則とする。しかし、高等学校による専門教育は期待された成果を得ることなく、発展せずに終わる。
但し書きで帝国大学に入学する者のための予科を設けることができるとしたが、制度としては従属的な扱いであった大学予科が大いに発展。
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文部大臣・井上毅の高等中学校改革は、帝国大学を大学院中心の研究機関に、分科大学を個別に設置。高等学校を専門教育機関として機能させ、これらを有機的に結びつけるという総合的な高等教育改革構想の第一段階であった。しかし、既に強固な基盤を持っていた帝国大学を改革することはできず。日清戦争後は帝国大学そのものが増設、高等学校はいよいよ大学予科としての機能を強める。構想は実現せず。
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1894(明治27)年 西園寺公望(46歳)、病気で辞任の文部大臣・井上毅の後任として、第2次伊藤博文内閣に初入閣。文部大臣に。女子教育発展などに努める。
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1894(明治27)年 西園寺公望(46歳)、戊辰戦争以来の繋がり、中川家子息・中川小十郎との出会いを喜ぶ。厚遇、文部大臣秘書官に抜擢。
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1894(明治27)年 中川小十郎(29歳)、文部大臣・西園寺公望の秘書官として仕える。以後、首相秘書官・元老私設秘書として終生そばに仕え続ける。
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1894(明治27)年 西園寺公望(46歳)、高等教育拡張計画立案。東京帝国大学と共に国家の需要に応じる高等教育機関を京都の地に設置する必要を説く。京都帝国大学創立準備委員設置。私設秘書を務める中川小十郎を京都帝国大学初代事務局長に任命。
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1894(明治27)年 中川小十郎(29歳)、都帝国大学初代事務局長に。木下広次と共に京都帝国大学創立参画。教官選任・会計事務など取り仕切る。
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1894(明治27)年9月11日、第一次高等学校令により、第一高等中学校を第一高等学校に改組。卒業生の多くは東京帝国大学進学。政界・官界・財界・学界などあらゆる分野でエリートとして活躍する有為な人材を世に送り出す。その特色は、1890年代から始まった学生による自治制度と皆寄宿制度(全寮制)。
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1897(明治30)年6月28日 木下広次(47歳)、文部省専門学務局長を兼任のまま、新設の京都帝国大学初代総長に。ドイツ流の大学システムを採用、「自由」の学風の基礎を築く。大学寄宿舎設置、舎生に管理・運営を任せる。
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1897(明治30)年 折田彦市(49歳)、牧野伸顕・木下広次・永井久一郎と共に、京都帝国大学創立委員に。第三高等学校を京都帝国大学に昇格、初代総長の有力候補となる観測もあったが、第三高等学校は大学予備機関に転換することに。
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1899(明治32)年 中川小十郎(34歳)、教育への情熱を捨てきれず。文部官僚時代、創設に関わった京都帝国大学が高等学校卒業生しか受けれ入れることができないことに限界を感じ、私学創立を志す。教学面での協力を京都帝国大学教授陣より得、また設立賛助員として広岡浅子や西園寺公望実弟・住友友純からの大口寄付ほか京都政財界大物の協力を得る。朝日生命保険事務所の一角に、京都法政学校(現・立命館大学)設立事務所創立。
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中川小十郎、加島屋時代に生計のため働く青年たちが高等教育を受ける機会を奪われている現状に官立学校の不備実感。西園寺公望が提唱する「能力と意欲のある人に国として教育機会を与えるべき」実現のため、私学創立決意。
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1900(明治33)年6月5日 中川小十郎(35歳)、鴨川河畔の清輝楼にて京都法政学校開校。初代校長に、富井政章。司法省法学校卒業の京都始審裁判所勤務・山崎恵純が校主を務めるフランス法系私立法律学校・京都法学校を吸収。
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1900(明治33)年 木下広次(50歳)、京都帝国大学初代事務局長・中川小十郎による京都法政学校(現・立命館大学)設立に尽力。京都法政学校は京都帝国大学と「同心一体たるべきことを根本条件とすべき」と述べる。
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1903(明治36)年6月 中川小十郎(38歳)、木下広次に請われ、官界復帰。京都帝国大学書記官に。
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1907(明治40)年7月1日 木下広次(57歳)、京都帝国大学初代総長を依願退官。12月、名誉教授に。
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1908(明治41)年 木下広次(58歳)、錦鶏間祗候に。
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1910(明治43)年1月26日 木下広次(60歳)、死去。享年60歳。
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