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ダイガクコトハジメ - 服部一三

服部一三

出身校

  • 長州藩郷校・憲章館

  • 佐賀藩校致遠館

  • ラトガース大学理学部

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服部一三

はっとりいちぞう

1851(嘉永4)年3月13日(旧暦・2月11日) - 1929(昭和4)年1月25日

文部省東京英語学校校長、東京大学法・理・文三学部綜理・東京大学法学部長、東京大学予備門予備門長、大阪専門学校(現・京都大学)校長、文部省書記官兼参事官・普通学務局長、岩手県知事、広島県知事、長崎県知事、兵庫県知事、貴族院勅選議員、錦鶏間祗候

服部一三」に関する書籍 [外部]

  • 1851(嘉永4)年3月13日(旧暦・2月11日) 服部一三(1歳)、周防国吉敷郡吉敷村(現・山口県山口市)に長州藩士槍術指南役・渡辺兵蔵の三男として生まれる。幼名、猪三郎。

  • 1857(安政4)年 服部一三(7歳)、郷校・憲章館入学。学頭、片山哲次郎。

  • 1858(安政5)年 澤山保羅(7歳)、郷校・憲章館に学ぶ。四書五経の漢学・書道・武術・礼式など学ぶ。同輩に、服部一三

  • 1865(元治2/慶応元)年 服部一三(15歳)、郷校・憲章館の学頭であった片山哲次郎の養子に。片山哲次郎が生家の服部姓の名を継ぐ際、服部を名乗るように。

  • 1865(元治2/慶応元)年 服部一三(15歳)、長州藩遊撃隊に入隊。

  • 1867(慶応3)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(53歳)、佐賀藩諫早家の屋敷内に、英学校・致遠館設立。翌年1868(慶応4)年に副島種臣・大隈重信の手引きにより幕府英学所・済美館(長崎英語伝習所)で教えていたオランダ人宣教師フルベッキが校長として招かれる。新約聖書とアメリカ合衆国憲法をテキストとし、欧米の政治制度・法制度の講義や議論が盛んに行われる。副島種臣・大隈重信もフルベッキに学びながら、教頭格として教壇に立つ。佐賀藩のみならず広く他藩の人材も在学。勝海舟の子・勝小鹿、岩倉具視の子・岩倉具定・岩倉具経、服部一三相良知安ほか100余名の学生を擁する。1869(明治2)年4月、フルベッキが明治新政府より招かれ上京、大学南校(現・東京大学)教師に。閉校。

  • 1867(慶応3)年 大隈重信(30歳)、副島種臣と共に長崎の幕府英学所・済美館(長崎英語伝習所)で英語を学んだオランダ人宣教師フルベッキを佐賀藩に迎え入れる。長崎五島町の諌早藩士・山本家屋敷を改造した英学校・致遠館にて、フルベッキを校長に。副島種臣と共に教頭格となる。学校運営と教育に熱中、宣教師フルベッキより英語を学びながら、自らも教壇に立つ。

  • 1867(慶応3)年5月(旧暦・4月) 服部一三(17歳)、河瀬真孝の長崎追従の許可をきっかけに、長崎遊学。洋学を学ぶ。後にイギリス総領事となるロバートソン、アストンに師事。長崎に設立された佐賀藩校の英学塾・致遠館にて、岩倉具視の子である岩倉具定・岩倉具経兄弟と共に大隈重信やフルベッキから教えを受ける。伊藤博文や井上馨の居宅で生活、渡航の機会を窺がう。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

 

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1868(慶応4/明治元)年9月 折田彦市(20歳)、洋学の必要性を認める岩倉具視に二子を託され、岩倉具定・岩倉具経と共に長崎遊学。佐賀藩校・致遠館入学。グイド・フルベッキに学ぶ。

  • 1869(明治2)年末 服部一三(19歳)、官費留学が決定。岩倉具定・岩倉具経兄弟と共に、アメリカニュージャージー州ニューブラウンズウィックへ留学。

  • 1870(明治3)年3月 折田彦市(22歳)、岩倉具定・岩倉具経の米国留学に随行。同じくフルベッキに学んだ服部一三と山本重輔も同行。官費留学生に。フルベッキが留学斡旋。他4名はアメリカニュージャージー州ニューブラウンズウィックに入学するも、英語力不足を理由に別行動に。ミルストンの町に寄宿。一時、神田乃武と同居。

  • 1870(明治3)年秋 森有礼(24歳)、少弁務使としてアメリカ赴任。外債募集・文化外交の折衝を担う。在任中、英文による『信仰自由論』・『日本の教育』刊行を試みる。

  • 服部一三、アメリカ留学時、上司である森有礼と共に、トマス・レイク・ハリスが設立した新興宗教・新生兄弟会の影響を受ける。

1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク

大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。

  • 1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、南校にて文部省主導による貢進生廃止など制度改革。一時閉鎖、翌10月に再開。外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となったが、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた。

1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布

日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。​

「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。

  • 1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、南校は中学校へと改組。第一大学区第一番中学校に。外国語による普通科課程を修了する学生が出てくると、次の受け皿が必要に。

1873(明治6)年4月 学制二編追加

「専門学校」について、外国教師によって教授する高尚な学校とした。法学校・医学校・理学校・諸芸学校・鉱山学校・工業学校・農業学校・商業学校・獣医学校等に区分。「大学」と同じく、卒業者には学士の称号を与えることを定める。

「外国語学校」について、外国語学に熟達するのを目的とし、専門学校に進学するもの、あるいは通弁(通訳)を学ぼうとするものを入学させるとした。

  • 1873(明治6)年8月、開成学校、従来の「語学課程」(普通科)に加え、「専門学課程」(専門科)新設。法学・化学・工学・鉱山学・諸芸学の五科が設置される。法学・化学・工学が英語で教授されたが、鉱山学はドイツ語、諸芸学はフランス語で授業が行われ、残留していた独仏語専修の学生に対する移行措置とされた。当2学科について、学生の卒業に伴い順次廃止。

  • 東京外国語学校、英・仏・独・清(中国)・魯(ロシア)の5語科を設置(後に英語科が分離)。朝鮮語科を増設。高等教育の基礎としての外国語教育と通訳養成教育の二重の役割を果たす。

  • 1874(明治7)年5月、東京開成学校に改称。法学・化学・工学3科よりなる修業年限3年ないし4年の本科に再編される。加えて、修業年限3年の予科が設けられる。

  • 1875(明治8)年6月 服部一三(25歳)、アメリカ・ラトガース大学理学部卒業。理学士学位取得。

  • 1875(明治8)年9月 服部一三(25歳)、アメリカ留学より帰国。文部省入省。督学局雇に。

1877(明治10)年4月12日 東京大学創立

東京開成学校本科東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。

法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。

  • 1880(明治13)年 服部一三(30歳)、後漢の学者・張衡の候風地動儀の図を画工に描かせ、東京大学へ寄贈。この縁により、日本地震学会の初代会長就任。

1881(明治14)年4月12日 東京大学機構改革、総合大学誕生

東京大学法学部・理学部・文学部三学部東京大学医学部を名実共に統合、4学部を有する総合大学が誕生。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった東京大学法・理・文三学部は、1885(明治17)年にかけて東京大学医学部に隣接する本郷新校舎に移転。

  • 1882(明治15)年2月 服部一三(32歳)、東京大学幹事に。

  • 1884(明治17)年 服部一三(34歳)、農商務省御用掛に。ニューオーリンズで開催の万国工業兼綿百年期博覧会に参列。欧州各国を視察。

  • 1885(明治18)年8月、東京大学予備門東京大学付属より分離。文部省の管轄に。制度を改め、東京大学の予備教育機関であるばかりでなく、他の官立学校に入学すべき生徒も養成する機関と拡張される。

  • 1886(明治19)年3月 服部一三(36歳)、文部省書記官兼参事官に。

  • 服部一三、文部省普通学務局長に。

  • 1891(明治24)年4月 服部一三(41歳)、官選により岩手県知事に転じる。

  • 服部一三、以後、広島県知事・長崎県知事・兵庫県知事を歴任。

  • 1903(明治36)年7月15日 服部一三(53歳)、兵庫県知事在任中、貴族院勅選議員に。同和会に属す。

  • 1916(大正5)年6月19日 服部一三(66歳)、錦鶏間祗候に。

  • 1919(大正8)年4月 服部一三(69歳)、万国議員商議員としてベルギー訪問。

  • 1919(大正8)年11月 服部一三(69歳)、神戸商工会議所内に国際連盟神戸支部を開設。支部長に。

  • 1926(大正15/昭和元)年 服部一三(76歳)、平沼騏一郎が会長となっていた国本社の神戸支部長に。​

  • 1929(昭和4)年1月25日 服部一三(79歳)、死去。享年79歳。

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