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ダイガクコトハジメ - 市島謙吉 - 大学の始まり物語

市島謙吉

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市島謙吉

  • 市島謙吉|大学事始「大学の 始まり”物語。」

年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約2,000文字(読了目安:5分程度)​

​「言論と書架、早稲田の守護者」

市島謙吉の大学”始まり”物語

序章 越後の俊才、知と反骨の系譜

 幕末の動乱が始まったばかりの1860年。越後国北蒲原郡水原に、商業で財を成した豪農一族・角市市島家の長男として誕生。恵まれた環境の中、幼少より英才教育を受けます。水原県立広業館にて星野恒に漢学を学び、新潟学校で英語を習得。1872年、12歳で上京して東京英語学校に入学、早くから漢学と洋学を兼ね備えた才覚を見せました。

 1878年、創立間もない
東京大学文学部に入学。ここで市島謙吉は、後に早稲田の礎を共に築くこととなる同志たち、高田早苗天野為之坪内逍遥らと出会います。彼らは旧弊な権威に臆することなく、日本の未来を憂いて新しい時代を切り拓く志を抱いた若者たちでした。この若き知性の人脈・交流の場から、早稲田大学誕生に至る人生が切り拓かれていきます。
 

第一章 言論の闘士、東京専門学校へ

 市島謙吉の順調に見えた学業は、予期せぬ転機を迎えます。東京大学文学部在学3年次、父・市島直太郎の養蚕事業が失敗、家計が窮乏。叔父・市島和泉巖吉の援助を受けながらも、彼は大学を中退せざるを得なくなります。学業中断後、彼は小野義眞の斡旋により、郵便汽船三菱会社運賃課長として実社会での経験をつ積みます。

 この頃、日本の政治は激動の渦中にありました。1881年、後に師となる
大隈重信は、政治の中枢にあって孤立を深めていました。当時急進的過ぎるとされたイギリス型政党内閣制案を独自に提出したこと、「北海道開拓使官有物払い下げ問題」への反対論者となったことから、伊藤博文ら薩長勢と対立します。そして「明治十四年の政変」によって政府から追放、下野するという大事件が勃発しました。この政変を機に、大隈重信の腹心であった小野梓も官を辞します。1882年3月、大隈重信小野梓と共に立憲改進党を結成、市島謙吉も政党設立に参画しました。豪商出身でありながら、言論と政治の最前線へと身を投じることとなります。

 「教育者」の道を歩むこととなる転機が訪れます。来るべき立憲政治の指導的人材養成すべく、学校設立に参画。1882年10月21日、
大隈重信が英国流の近代国家建設という政治展望を掲げ、その一事業として東京専門学校を創設。小野梓が「学問の独立」を宣言、実学を重んじ独立の精神を育む「在野の大学」が誕生しました。

 

 しかし、その船出は順風満帆とはいかず。東京大学の学生が中心であったこと、自由民権運動の牙城と目された立憲改進党の学校と見做されたことから、明治新政府より厳しい監視の目を向けられます。政府からの妨害・圧迫に直面、創立早々に廃校の危機に見舞われる中で。市島謙吉は高田早苗天野為之坪内逍遥ら同志たちと共に、自ら教鞭を執って学生を導いていきました。
 

第二章 筆禍の苦難、図書館の光

 

  東京専門学校の学校運営に尽力する傍ら、『内外政党事情』を発刊するなど言論活動にも力を入れます。しかしここでも政府からの監視に遭い、翌年には廃刊に追い込まれてれしまいます。

政府の厳しい言論統制と戦うべく、言論活動に軸足を移すことを決意。郷里の越後に戻って『高田新聞』を立ち上げ、論陣を張ります。そして1883年、「高田事件」を記事で批判したことで改正新聞紙条例筆禍第一号として検挙され、投獄されてしまいました。言論の自由を求める市島謙吉にとって、これは大きな試練となります。

 1885年に出獄した後、再び
東京専門学校に戻り政治学を教えます。傍ら、郷里の新潟に戻って新潟新聞に参加。大同団結運動に反対の論陣を張るなど、政治活動を続けます。第1回衆議院議員総選挙にて新潟2区より立憲改進党から出馬するも、大同団結派の丹呉直平・加藤勝弥に破れて落選。以後も大規模な選挙干渉に巻き込まれるなど、選挙情勢の厳しさに直面することになります。言論人として社会に影響を与えるべく、盟友の高田早苗が主筆を務める読売新聞社に入社、跡を継ぎます。

 そして1894年、35歳になった市島謙吉は第4回衆議院議員総選挙で立憲改進党から出馬、ついに初当選を果たしました。念願の国政の舞台で、彼は政治家としての役割も果たしていくことになります。

 

終章 早稲田の守護者、不朽の遺産

 

 政治活動を継続する市島謙吉でしたが、1901年に体調を崩したことで衆議院議員を辞職します。政治活動を断念せざるを得ない状況の中で、市島謙吉の情熱は別の形で東京専門学校に注がれることになりました。高田早苗の薦めにより、彼は東京専門学校の図書館長に就任しました。

 翌1902年、
東京専門学校は専門学校令に基づいて「早稲田大学」に改称、大学昇格を果たします。市島謙吉は早稲田大学初代図書館長となりました。同年、日本文庫協会(現・日本図書館協会)を設立、初代館長に就任します。第一回図書館事項講習会を開催するなど、日本の司書制度の濫觴を築き、図書館界の発展に大きく貢献したのです。早稲田騒動で職を辞するまで、早稲田大学図書館長として和漢洋の蔵書の拡充に奔走、大学の知の拠点としての基盤を確立していきました。

 
早稲田大学が総長・学長制を敷き、初代総長に大隈重信、初代学長に盟友・高田早苗が就任した後も、市島謙吉は学園の重要な存在であり続けました。1913年、大隈重信が宣言した早稲田大学の基本理念を示す『早稲田大学教旨』の草案作成に参加。晩年には大隈重信伯後援会会長を務め、その政治活動を献身的に支えました。
 

 1922年、師・大隈重信が83歳で逝去。その死に際して、「世界的デモクラシーの政治家である大隈重信は、国民葬の礼を持って送ることがふさわしい」と発表。日比谷公園にて執り行われた国民葬の葬儀委員長を務めるなど、最期まで大隈重信への深い敬意と忠誠を示しました。

 1944年4月21日、市島謙吉は85歳でその生涯を閉じました。
大隈重信小野梓を支え、早稲田大学の発展に貢献した「早稲田四尊」の一人として称された彼は、大学図書館という「知の砦」を守り育てることで早稲田大学を今の世に伝えました。

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