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小野梓
年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約2,000文字(読了目安:5分程度)
「大隈重信と挑む、学問の独立」
小野梓の大学”始まり”物語
序章 土佐の俊英、世界に立つ
幕末の動乱が収束へと向かう1852年、土佐国宿毛に軽格武士の次男として生まれます。旧来の身分制度が残る時代にあって、彼は早くからその非凡な才覚を見せていました。明治維新による旧幕府教育機関の再編期、1869年。18歳になった小野梓は上京、官立の昌平学校に学びます。新政府が近代教育への転換を進める中、彼は日本の新しい潮流に身を置きました。
小野梓の人生における決定的な転機は、20歳を迎えた1871年に訪れます。彼は私費で米国そして英国へと留学。西洋の最先端の法学・政治学・経済学を貪欲に吸収し、特にベンサムの功利主義から強い影響を受けました。国家や社会の幸福を最大化する「最大多数の最大幸福」という理念は、彼の思想的基盤となり生涯の行動原理を形成します。留学から帰国した1874年、彼は同志と共に啓蒙団体「共存同衆」を結成、『共存雑誌』発刊。西洋思想の普及に努め、文明開化期の言論活動を牽引します。彼の思想が具体的な行動として現れた、その始まりでした。
第一章 在野の思想家、運命の出会い
1876年、25歳になった小野梓は司法省の官吏となり、その後も司法省少丞、太政官少書記官などを歴任します。近代日本の制度構築に一端を担う中で、彼は官界での実務経験を積んでいきました。この官職を通じて、彼の人生を大きく動かす運命の出会いが待っていました。1880年、大隈重信が国家財政の透明化を目指して会計検査院を設立。小野梓は検査官として就任しました。ここで彼は大隈重信と出会い、その関係を深くしていきます。小野梓の持つ先進的な思想と大隈重信の改革志向は共鳴、後の早稲田大学創立に向けた二人三脚の出発点となるのです。
しかし、彼らを取り巻く政局は荒れていました。1881年、「明治十四年の政変」が起こります。国会開設の時期や形式を巡る政府内の対立。イギリス流議会政治の早期発足を主張した大隈重信は、盟友であったはずの伊藤博文や井上馨らによって政府から追放され、下野するのです。この政変を機に、小野梓もまた大隈重信に同調して官職を辞しました。権力の中心から離れることは、彼にとっての挫折ではなく、真に「学問の独立」を実現するための活動へと軸足を移す、決定的な転機となったのです。
官の立場を捨てて在野へと転じた小野梓は、翌1882年に早くも行動を起こします。彼は、近代日本の最高学府である東京大学の学生たちを中心に、政治結社「鷗渡会(おうとかい)」を設立しました。そのメンバーには、後に早稲田の礎となる若き知性、高田早苗・天野為之・市島謙吉・坪内逍遥らが加わります。明治十四年の政変後、近代政治思想を渇望していた彼らは小野梓の掲げる理念に強く惹きつけられたのです。
第二章 「学問の独立」宣言、東京専門学校誕生
同時期、大隈重信も自由民権運動を背景に。来るべき国会開設に備えるべく、新たな政治勢力となる立憲改進党を組織します。10年後の政党政治実現を目指すこの党において、小野梓は鷗渡会を率いてこれに合流し、党の理論的支柱としての役割を担います。
学校設立への具体的な構想が動き出すのは、1882年4月。大隈重信より、婿養子の大隈英麿が発案した理学学校設立計画の相談を受けました。鷗渡会メンバーを交えた議論の結果、理学学校の枠を超え、来るべき立憲政治の担い手・指導者を養成するための学校を設立すべきとの構想が固まります。こうして政治経済や法律を教授する東京専門学校が誕生するに至るのです。
1882年10月21日、大隈重信が英国流の近代国家建設という政治展望を掲げ、その一事業として東京専門学校を創設。そして小野梓はその中心人物として「学問の独立」を謳います。共に創設したこの学校は、「学問の活用」・「模範国民の造就」を掲げます。北門義塾校舎を受け継ぎ、政治経済学科・法律学科・英学科・理学科を設置。小野梓は校閲監督として、初期の学校運営を主導します。
「一国の独立は国民の独立に基き、国民の独立は其精神の独立に根ざす。而して国民精神の独立は実に学問の独立に由るものであるから、其国を独立せしめんと欲せば、必ず先づその精神を独立せしめざるを得ず。しかしてその精神を独立せしめんと欲せば、必ず先ず其学問を独立せしめなければならぬ。これ自然の理であつて、勢のおもむくところである。」
「学問の独立」を宣言、政府の意向に左右されない「在野の大学」として日本の高等教育史に新たな一章を刻む画期的な船出となりました。
終章 若き理想家の遺産
しかし、東京専門学校の船出は順風満帆ではありませんでした。東京大学の学生が中心であったこと、そして自由民権運動の牙城と目された立憲改進党の学校と見做されたことから、明治新政府から厳しい監視の目を向けられます。創設早々、廃校の危機に直面します。この困難な時期、大隈重信は政治的影響力を駆使して学校を守り、小野梓は病と闘いながらも学校運営の実務を一手に引き受けてその精神的支柱となりました。
東京専門学校での教育活動と並行し、小野梓の言論活動も続きます。1883年、彼は東洋館(後の冨山房)を設立。洋書取次ぎや政治・経済書の出版を行うことで、西洋思想の普及と学問の独立を推進します。1885年には彼の政治思想と学問的探究の集大成となる私擬憲法『国憲私案』を起草、『国憲汎論』を著述。イギリス流の立憲君主制実現を目指し、自由民権運動の理論的支柱としてて日本の近代国家のあり方を示し続けます。
しかし、その類稀なる才能と情熱はあまりにも早く燃え尽きてしまいます。1886年1月11日、小野梓は志半ばにして若くして夭折。享年わずか35歳でした。東京専門学校の創立と初期の運営に多大な貢献を果たし、日本の近代教育と立憲政治の基礎を築く途上で、その生涯を閉じたのです。彼の早すぎる死は、大隈重信をはじめとする同志たちにとって大きな痛手となりました。
しかし、小野梓が残した「学問の独立」の精神は、高田早苗・天野為之・市島謙吉・坪内逍遥ら鷗渡会以来の盟友たち、そして大隈重信によって脈々と受け継がれていきます。小野梓が蒔いた種は彼らの手によって育てられ、やがて早稲田大学が誕生するに至ります。