ダイガクコトハジメ - 宇佐川秀次郎
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宇佐川秀次郎
うさがわしゅうじろう
1849(嘉永2)年 - 1881(明治14)年
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1849(嘉永2)年 宇佐川秀次郎(1歳)、長州藩萩に生まれる。
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1861(万延2/文久元)年 宇佐川秀次郎(13歳)、宇佐川義方の養子となる。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
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1868(慶応4/明治元)年4月 福澤諭吉(34歳)、塾を慶應義塾と名付ける。教育活動に専念。三田藩・仙台藩・紀州藩・中津藩・越後長岡藩と懇意に、藩士を大量に受け入れる。特に紀州藩は慶應義塾内に紀州塾という藩士専用の部屋まで造られる。長岡藩は大参事・三島億二郎が共鳴、藩士を多数送り込み、笠原文平らが運営資金を支える。
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1872(明治5)年6月、大蔵大輔・井上馨と渋沢栄一が人材育成機関として構想した、大蔵省翻訳局設立。外国書翻訳や銀行要員養成のため、有給生徒を募集。小池清一(後に貴族院議員)・島田三郎・田口卯吉・高梨哲四郎(後に衆議院議員)・三輪信次郎(後に銀行学局教官)など錚々たる人財が入局。
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1872(明治5)年7月 宇佐川秀次郎(24歳)、慶應義塾入塾。
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1874(明治7)年4月、大蔵省、お雇い外国人・A.A.シャンドの薦めにより紙幣寮銀行課の一部局として、大蔵省銀行学局設立。実質的に翻訳局を引き継ぐものに。日本で最初の商業教育機関と呼べる。銀行学局長に、日下義雄。副長に、宇佐川秀次郎。
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1874(明治7)年4月 宇佐川秀次郎(26歳)、大蔵省銀行学局副長に。簿記担当。
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1874(明治7)年6月10日 宇佐川秀次郎(26歳)、大蔵省紙幣寮入省。八等出仕。丹吉人・小林雄七郎・遠藤敬止ら慶應義塾の同窓と共に、初期の大蔵省を牽引。
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1875(明治8)年 - 1876(明治9)年、大蔵省、国立銀行などから自費通学生を募集。銀行学局生徒の多くが紙幣寮に採用された為、銀行学局閉鎖。銀行課内に翻訳掛を新設、生徒の教育と翻訳が委嘱される。
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1877(明治10)年 宇佐川秀次郎(29歳)、大蔵省銀行学伝習所学頭に。
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1881(明治14)年 宇佐川秀次郎(33歳)、死去。享年33歳。
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