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ダイガクコトハジメ - 天野為之 - 大学の始まり物語

天野為之

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天野為之

  • 天野為之|大学事始「大学の 始まり”物語。」

年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約2,000文字(読了目安:5分程度)

​「実践経済学の旗手」

天野為之の大学”始まり”物語

序章 苦学の果て、知の扉を開く

 1861年、江戸の唐津藩上屋敷に藩医の長男として生まれます。しかし、天野為之の少年期は苦難に満ちていました。明治維新前後、父・松庵が病で死去、母・鏡と弟・喜之助の三人で故郷唐津へ帰郷します。天野家は極度の貧窮に喘ぐことになりました。幼くして一家の大黒柱を失いながらも、彼は逆境の中で勉学への並々ならぬ意欲を燃やし、その後の経済学への深い関心を育んでいきます。

 その勉学への情熱を支えたのは、母・鏡の献身でした。内職と公債の利息をやりくりし、息子を教育の道へと送り出します。1871年、10代はじめに唐津藩の英語学校・耐恒寮で後の総理大臣となる高橋是清から英語を学び、西洋の学問への基礎を築きます。そして1877年、17歳になると弟・喜之助と共に日本の英才教育の門、東京大学予備門に入学。翌1878年には、東京大学文学部政治理財科へ進学します。ここで彼は、後に早稲田の礎を共に築く同志たち、高田早苗市島謙吉坪内逍遥といった若き俊英たちと出会い、生涯にわたる人脈を形成していきます。

 

第一章 在野の経済学者、早稲田へ

 

 人生の転機は、明治政府の政治的激動の中で訪れます。1880年、後に師となる大隈重信が国家財政の透明化を目指し、会計検査院を設立。そして、後に大隈重信の右腕となる小野梓が会計検査委員検査官に就任。運命の出会いを果たします。翌1881年、国会開設を巡る対立から「明治十四年の政変」が勃発、大隈重信が政府より追放されます。これに同調した小野梓も官を辞して野に下ります。


 在野となった小野梓は、政府の政治方針に批判的で近代政治思想を渇望する東京大学の学生たちを中心に、政治結社「鷗渡会(おうとかい)」を設立します。天野為之もまた、この鷗渡会に加わりました。1882年3月、大隈重信小野梓と共に立憲改進党を結成。天野為之は、この立憲改進党と連携する鷗渡会の主要メンバーとして、日本の新しい政治と教育の構想に深く関わっていくこととなります。

 同年4月、大隈重信から婿養子・大隈英麿が発案した理学学校設立構想の是非について、鷗渡会メンバーに相談が持ち掛けられます。協議の結果、理学学校ではなく、来るべき立憲政治の指導的人材養成を主目的とする学校、政治経済や法律を教授する学校の設立へと方針が転換。こうして、1882年10月21日、東京専門学校が創設されます。天野為之は専任講師として参画。学校の経営・教育に情熱を注ぎ込み、鷗渡会の同志である高田早苗らと共に創成期においてその基礎を築いていきました。

 

第二章 『経済原論』と在野の言論人

 

 しかし、東京専門学校の船出は困難を極めます。「学問の独立」を掲げたこの学校は、明治新政府から立憲改進党系の学校と見做され、厳しい監視と様々な妨害・圧迫に晒されます。判事・検事および東京大学教授の出講禁止措置などにより、講師の確保にも窮する状況が続きました。創設早々に廃校の危機となります。大隈重信が政治的影響力を駆使して学校を守る中、小野梓が病と闘いながら学校運営の実務を主導。この大隈重信小野梓の二人三脚が、早稲田誕生の「肝」となりました。

 しかし、その二人三脚は長くは続きません。1886年1月11日、小野梓はわずか35歳で夭折。かけがえのない同志を失う痛恨の出来事を経験します。しかし、東京専門学校の「学問の独立」の志は揺らがず。小野梓の死後、学校運営の中心を担ったのは鷗渡会以来の盟友である高田早苗でした。天野為之は、立憲改進党党員・東京専門学校講師として働く傍ら、『朝野新聞』や『読売新聞』など紙面に寄稿。経済学者としての知見を活かし、在野の言論人として社会に影響を与える活動を継続します。

 同年、天野為之は自身の名を高める画期的な著作を発表します。それが、『経済原論』でした。日本人の手による完全書下ろしの経済書として、版を22回重ねて3万部を売り上げるロングセラーとなりました。ミル、ジョン・ネヴィル・ケインズ、ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズなど西洋の古典学派の経済学を深く参照しつつ、東京専門学校での講義資料を基に執筆されたこの書は、日本の経済学の基礎を築いたのです。「邦語による速成教育」を掲げる東京専門学校の活動が、出版の形で社会へ還元される。まさに彼の経済学への情熱と教育理念が結実した瞬間でした。その後も彼は陸軍経理学校や海軍主計学校の講師を務めるなど、国家の軍事教育機関でも経済学を教授。実学の普及に貢献します。

 

第三章 政界の挫折、東洋経済新報社での雄飛


 1890年、30歳になった天野為之は国会開設に合わせ行われた第1回衆議院議員総選挙に故郷佐賀2区から立候補、当選します。経済学者としての知見を活かして政界に進出。国民の代表として日本の近代化を推進します。翌1891年、国会で予算委員として活動。高等中学校など教育機関廃止案に異議を唱えて撤回させるなど、政治家として教育の重要性を守るために尽力します。

 しかし、その政治キャリアは長くは続きません。1892年、第2回衆議院議員総選挙に出馬するも、大規模な選挙干渉に巻き込まれて落選。これを機に、彼は政界から身を引きました。政治家としての挫折を経験した天野為之は、その活動の軸を言論活動と早稲田での教育に集中させていきます。

 1897年、創立間もない東洋経済新報社の経営を町田忠治より引き継ぎ、第2代主幹に就任します。以後10年間、彼は東洋経済新報社の経営基盤構築と社風形成に大きく貢献。在任中、植松考昭・三浦銕太郎など東京専門学校出身者たちが続々入社、活動の中心的な役割を担うようになりました。彼自身は「牛中山人」の筆名で社説を執筆、保護貿易論に反対して自由貿易経済政策を主張。日露戦争に際しては冷徹な視点からの論陣を張ったりと、経済学者・言論人としての活動が本格化します。この言論機関を通じ、彼は自由主義経済と経済教育の重要性を社会に力強く訴えかけました。1898年には法学博士の学位を取得。彼の学識が公的に認めらます。

 

終章 早稲田の試練、不朽の遺産


 東京専門学校は大学昇格に向け、本格的に動き出します。1900年、大学部を設置。1902年には専門学校令に基づき、「早稲田大学」に改称。名実ともに大学としての地位を確立します。天野為之は、1904年に新設された早稲田大学商科の初代科長に就任。経済教育の拡充を模索します。また、同年には早稲田実業学校長も兼務。高等教育だけでなく中等教育においても実業教育の重要性を説き、その実践を指揮します。

 1907年、大隈重信が政界を引退し早稲田大学初代総長に就任すると、高田早苗が初代学長に就任。天野為之も主要な経営陣の一員として学園を支えます。1913年には、大隈重信が宣言した早稲田大学の基本理念を示す『早稲田大学教旨』の草案作成にも携わります。そして1915年、天野為之は早稲田大学第2代学長に就任。長年の学校運営と教育への貢献が認められ、学園の最高責任者の一人となります。

 しかし、彼の学長在任期に、早稲田大学は最大の試練に直面します。1917年、「早稲田騒動」と呼ばれる内紛が発生します。第二次大隈重信内閣の瓦解と共に文部大臣を辞任した高田早苗が学長復帰を目指す動きの中、現学長としてこれに対立。新聞報道、学生や世論をも巻き込む一大騒乱へと発展しました。永井柳太郎ら5教授が解任され、校門占拠事件にまで発展。最終的に、天野為之は絶縁に近い形で早稲田大学を離れることになりました。


 早稲田大学を離れた後も、彼の実業教育への情熱は衰えず。再び早稲田実業学校に戻り校長に就任、学校運営に尽力し続けました。早稲田大学とは別の路線で実業教育を確立していくのです。

 1938年3月26日、天野為之は78歳でその生涯を閉じます。明治・大正の激動期に、経済学者・教育者・言論人・政治家として多岐にわたる活躍を見せた彼の功績は高く評価され、「早稲田四尊」の一人として評されます。また福田徳三からは福澤諭吉・田口卯吉と並び「明治前期の三大経済学者」に挙げられるなど、その名は近代日本史に深く刻まれました。

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