
大鳥圭介
年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約3,000文字(読了目安:5-10分程度)
「幕臣敗軍の将、技術立国を担う」
大鳥圭介の大学”始まり”物語
序章 蘭学への傾倒と黒船の衝撃
1833(天保4)年、播磨国赤穂郡赤松村(現在の兵庫県上郡町)に、医師・小林直輔の子として大鳥圭介が生まれる。幼名、慶太郎。のちに大鳥家を継いだ彼は、父が学んだ岡山藩校・閑谷学校で漢学や儒学、漢方医学を修める。1849(嘉永2)年、17歳で帰郷し蘭方医の助手となるが、彼の知的好奇心は医学という枠に留まらなかった。
1852(嘉永5)年、20歳となった圭介はさらなる蘭学修行のため上阪。緒方洪庵が主宰する適塾の門を叩く。ここで西洋医学や蘭学を猛烈に吸収する最中、日本の運命を揺るがす事態が勃発する。翌1853(嘉永6)年、ペリー率いるアメリカ艦隊の浦賀来航である。
圧倒的な軍事力を誇る黒船の威容。もはや旧態依然とした学問では国を守ることはできない。1854(安政元)年、22歳の圭介は江戸へ下り、兵学や工学への関心を深めていく。薩摩藩の知遇を得て翻訳を手伝い、幕臣・勝海舟とも出会い見聞を広めた。1857(安政4)年、25歳で縄武館(江川塾)の兵学教授として招かれ、中浜万次郎から直接英語を学ぶ。
1859(安政6)年、27歳の圭介は幕府の洋学研究教育機関である蕃書調所に出仕。翌1860(万延元)年には『砲科新編』を翻訳出版、日本初の合金製活版である「大鳥活字」を作り出すなど、卓越した技術的知見を発揮する。1865(慶応元)年、33歳の彼は陸軍所に出仕、正式な幕臣(旗本)として取り立てられる。西洋式軍隊の育成を担い、歩兵頭並から歩兵頭へと異例の出世を遂げていく。
第一章 激動の時代との衝突
1867(慶応3)年、第15代将軍・徳川慶喜が大政奉還をおこなう。200年続いた武家政権の事実上の崩壊。翌1868(慶応4)年、薩摩・長州を中心とする新政府軍と旧幕府軍が激突する戊辰戦争が勃発する。
36歳の圭介は、鳥羽・伏見の戦いで敗北した後の江戸城における評定にて、新政府への徹底抗戦を強硬に主張した。幕府軍の最高幹部である歩兵奉行にまで登り詰めた彼にとって、無条件降伏は受け入れ難い屈辱であった。陸軍総裁の勝らが恭順と江戸城無血開城へと舵を切る中、圭介は自らが鍛え上げた精鋭・伝習隊を率いて江戸を脱走する。西洋兵学の神髄を身につけた幕府軍の将としての、誇りと意地の決断である。
宇都宮、今市、会津と転戦し、激しい防衛戦を繰り広げながら北上。母成峠の戦いで伝習隊は壊滅的な損害を受けるも、圭介は辛うじて仙台へと逃れ、軍艦頭・榎本武揚らと合流して蝦夷地(北海道)へと渡る。箱館政権の陸軍奉行として五稜郭を拠点に新政府軍と刃を交えるが、圧倒的な物量の前に戦局は絶望的なものとなっていく。
1869(明治2)年、37歳の圭介は五稜郭でついに降伏。東京へ護送され、軍務局糺問所へと投獄される。近代国家建設に抗った「逆賊」としての死罪。誰もが彼の命運は尽きたと確信した。
第二章 工部大学校建学への挑戦
しかし、新政府は彼を殺さなかった。近代化を急務とする明治政府にとって、圭介が持つ卓越した西洋兵学、工学、語学の知識は、何にも代えがたい国家の財産であった。
1872(明治5)年、40歳の圭介は特赦により出獄。即座に新政府に出仕、欧米各国での開拓機械の視察や公債発行の交渉に赴くなど、技術官僚としての道を歩み始める。かつて五稜郭で砲火を交えた敵将は、近代化という新たな戦場へと身を投じたのである。
1875(明治8)年、43歳の圭介は、長州出身の伊藤博文や山尾庸三らが創立を主導した工部省へ出仕。工作局長としてセメントやガラス、造船といった官営工場を総括する。翌1876(明治9)年には、日本初の純粋な西洋美術教育機関である工部美術学校の校長にも就任した。
そして1877(明治10)年、45歳となった圭介に極めて重要な辞令が下る。工学寮工学校を改称して発足した「工部大学校」の初代校長への抜擢である。工部大学校は、お雇い外国人に依存せず、自国で日本人技術者を育成するための最高学府。イギリスから招聘されたヘンリー・ダイアーらの指導の下、理論研究と工場での実地修練を組み合わせた過酷なカリキュラムが組まれていた。圭介は、かつての長州・薩摩の志士たちが設立した学び舎で、旧幕府軍の将としてトップに立ち、未来の理系エリートたちを泥臭く鍛え上げた。出自や過去の対立を超えた、冷徹かつ実力本位の建学である。
第三章 魂の継承
工部大学校のトップとして実務を牽引する傍ら、圭介は日本初の工業雑誌『中外工業新報』を発刊。民間への先進技術の普及に尽力する。1881(明治14)年には工部技監に昇進。技術者として国家の最高位である勅任官にまで上り詰める。さらに東京学士会院の会員にも選ばれ、日本の学術発展の中核を担っていく。
1885(明治18)年、内閣制度の発足に伴い工部省は廃止。翌1886(明治19)年、54歳の圭介が見守る中、工部大学校は東京大学工芸学部と合併し「帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)」へと昇華する。彼の教育への情熱は途切れることなく、同年に学習院第3代院長および華族女学校校長に就任。次代の指導者層の育成にその手腕を振るい続けた。
その後、圭介は外交官へと転じる。1889(明治22)年には駐清国特命全権公使、さらに朝鮮公使も兼任。日清戦争開戦直前の極度な緊張状態の中、朝鮮の独立運動派から発砲を受けるなどの危険に晒されながらも、国家の存亡を懸けた最前線で苛烈な外交交渉に当たり続けた。帰国後は枢密顧問官を務め、1911(明治44)年、79歳でこの世を去る。
敗軍の将として一度は死を覚悟した男。しかし、若き日に泥臭く身につけた「実学」が彼の命を繋ぎ、やがて国家の屋台骨を支える無数の技術者たちを育てることとなった。旧幕臣・大鳥圭介が初代校長として理系エリートたちに注ぎ込んだ工学の魂は、現代の最高学府の根底に今も力強く脈打っている。
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