
出身校
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ダートマス大学
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プリンストン大学
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参考情報
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参考文献・書籍
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年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約2,000文字(読了目安:5分程度)
「早稲田の隠れた礎」
大隈英麿の大学”始まり”物語
序章 藩主の血、洋学の光
1856年、彼は陸奥盛岡城内に、盛岡藩第14代藩主・南部利剛の次男として生を受けました。幼名を剛建(たけたち)と言い、藩主の血を引く身でありながら、彼の人生は旧来の枠に囚われない稀有な「教育者」としての道を歩むこととなります。
その運命を決定づけたのは、若き日の渡米でした。1871年、16歳になった大隈英麿は姉・郁子の夫である華頂宮博経親王に従いアメリカへと渡ります。現地の小・中学校で基礎を固めた後、名門ダートマス大学に入学して天文学を専攻。指導教授の転任に伴いプリンストン大学に転学、数学を修めた後に理学学士の学位を取得しました。純粋な科学を究めた後、1874年にはアナポリスの海軍兵学校に入学。彼の学びは単なる学問に留まらず、西洋の実用的な知識とそれを国家に活かすという実学主義の思想を深く育んでいきました。この若き日の徹底した西洋教育こそが、彼の生涯を貫く「教育による国創り」への情熱の源流となるのです。
第一章 政変の嵐、教育への覚醒
学識を胸に帰国した大隈英麿の人生は、日本の近代化の牽引者・大隈重信との出会いによって大きく変転します。1878年、23歳になった彼は大隈重信の長女・熊子と結婚。大隈家の養嗣子となりました。この縁組により、近代日本の政治の中心へと足を踏み入れることとなります。この頃、彼は内務省地理局や外務省に勤務、官職の実務も経験しました。
しかし、運命の歯車は思わぬ方向へ。義父・大隈重信は政府内で国会開設の時期や形式を巡り、孤立を深めていました。盟友であったはずの伊藤博文や井上馨らが漸進的な憲法制定と国会開設を主張する一方、大隈重信はイギリス流の早期議会政治発足を主張。その溝は埋まらず、ついに1881年、「明治十四年の政変」を迎えます。開拓使官有物払い下げ事件での対応を造反だと見做された大隈重信は政府から追放され、下野。大隈英麿もまた、この政変を機に官職を辞しました。義父の政治的失脚は、自身の公職キャリアの終わりを意味しました。
しかしこの政変こそ、大隈英麿が真に「教育者」としての道を歩む、決定的な転換点となります。官の束縛を離れた彼は、留学時代に得た学識を活かすべく、義父・大隈重信に理学校の学校を興すことを持ち掛けます。これは大隈英麿の実学主義と教育への情熱から生まれた具体的な提案であり、政府から独立した教育への第一歩となるはずでした。
第二章 東京専門学校初代校長に
同時期、大隈重信は自由民権運動を背景に新たな政治勢力として立憲改進党を組織。明治十四年の政変で共に下野した小野梓も、母校・東京大学に在学中だった高田早苗・天野為之・市島謙吉・坪内逍遥ら学生を中心に政治結社「鷗渡会(おうとかい)」を設立。立憲改進党に合流しました。大隈重信は小野梓ら鷗渡会に理学学校設立を相談しますが、来るべき立憲政治の担い手、指導者を養成するための学校を設立すべきとの構想に大きく方向転換します。こうして小野梓ら鷗渡会メンバーを中心に、政治経済や法律を教授する学校創設が進められました。
実学を重んじ、独立の精神を育む場とする。「学問の独立」の理念の下、1882年10月21日に東京専門学校を創設。政府の意向に左右されない「在野の大学」として、日本の高等教育史に新たな一章を刻む画期的な出来事となります。大隈英麿は東京専門学校初代校長に就任、その実学教育への情熱と西洋での学びを学校運営に反映させます。この時期において、理学科は学生が集まらずに早々に廃止となります。理学部誕生には、まだ時間を有することとなりました。
大隈重信が事実上の創設者として学校運営の根幹を担い、小野梓は校閲監督として初期の学校運営を主導。教授陣は高田早苗・天野為之・市島謙吉らに坪内逍遥を加え、鷗渡会のメンバーを中心に進められました。しかし、その船出は順風満帆ではありません。東京専門学校は、東京大学の学生が中心であったこと、そして自由民権運動の牙城と目された立憲改進党の学校であると見做されたことから、明治新政府より厳しい監視の目を向けられます。創設早々に廃校の危機に直面するのです。この困難な時期、大隈重信は政治的影響力を駆使して学校を守り、小野梓は病と闘いながらも学校運営の実務を一手に引き受け、その精神的支柱となりました。
終章 早稲田の礎、そして静かなる引退
だが、大隈重信と小野梓の二人三脚は長くは続かず。1886年、小野梓は志半ばにして若くして夭折。大隈重信にとって、かけがえのない片腕を失う痛恨の出来事となります。小野梓の死後、学校運営の中心を担ったのは鷗渡会以来の盟友・高田早苗でした。大隈重信は政治の世界で多忙を極める傍ら高田早苗と二人三脚で学校の発展に尽力、実学に基づく教育理念を貫きます。大隈英麿もまた、1886年に大隈重信と共に早稲田尋常中学校を設立して初代校長に就任。早稲田学園の中等教育発展に貢献し続けます。
政治の世界でも、大隈英麿は衆議院議員として国政参画。1898年の第5回・第6回総選挙、1902年の第7回総選挙に岩手県から立候補して当選。大隈重信が率いる進歩党・憲政本党に属し、その政治的理念を国会で実現しようとしました。また、1901年には早稲田実業中学校の初代校長に就任。実業教育への強い関心を示し、多角的な教育活動を続けました。
しかし、1902年9月。大隈英麿の人生は大きな転機を迎えます。諸般の事情により妻・熊子と離婚、大隈家を去ることになったのです。これに伴い、長年尽力した早稲田学園に関する全ての職を辞職。実家である南部家に復しました。彼の教育者としての公的な活動に終止符を打つものとなったのでした。
早稲田大学の創立期において「早稲田の隠れた礎」として重要な役割を担った大隈英麿は、1910年5月14日に55歳でその生涯を閉じます。実学教育への情熱と理念は、早稲田大学の「学問の独立」の精神の一部として、脈々と受け継がれていくのです。