
大槻俊斎
年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約3,000文字(読了目安:5-10分程度)
「日本に西洋医学を拓く、東京大学医学部の祖」
大槻俊斎の大学”始まり”物語
序章 禁制のオランダ医学を学ぶ
1806(文化3)年、陸奥国桃生郡(現在の宮城県東松島市)に大槻俊斎が生まれる。1821(文政4)年、16歳となった俊斎は江戸へ、川越藩医の学僕として医学の道を歩み始める。その後、長沼藩の医師・手塚良仙に入門、高野長英や渡辺崋山といった蘭学の俊英たちと交わりながら、オランダ医学を深く修得する。
時代は、幕府の強力な鎖国政策の下にあった。西洋の学問を学ぶことは、常に政治的な弾圧と隣り合わせの危うさを孕んでいる。そのような状況下にあっても、彼は実学の研鑽を続ける。1837(天保8)年、32歳の俊斎は、その才能を見込んだ手塚良仙から学資の援助を受け、唯一の開港地である長崎へと遊学する。ここで高島秋帆らに最先端の西洋知識を学び、同時に、後に大坂で適塾を開く緒方洪庵と知己を得る。
第一章 江戸初の種痘と旧体制との衝突
1840(天保11)年、35歳の俊斎は江戸に帰り、下谷練塀小路で医業を開業する。翌1841(天保12)年、36歳の彼は高島秋帆から痘苗を得て、浅草蔵前の小児に種痘を接種する。見事に施術は成功、これが江戸における種痘の最初となる。
だが、その躍進に対して旧体制の風当たりが強まる。1849(嘉永2)年、漢方医の政治工作により幕府は「蘭書翻訳取締令」を発布。蘭方医学への徹底的な弾圧が始まる。しかし同年冬、44歳の俊斎は、桑田立斎や佐賀藩医の伊東玄朴らと共に多数の小児に牛痘接種を強行する。国家の迫害の中で、民衆の命を救う実務を断行する。
1853(嘉永6)年の黒船来航により、日本は未曾有の国難に直面する。圧倒的な武力の前で幕府が方針転換を迫られる中、翌1854(嘉永7)年、49歳の俊斎は日本初の軍陣外科学書『銃創瑣言』を出版する。机上の空論ではない、国家存亡の危機に直結する生きた医学の提示となる。
第二章 お玉が池種痘所の設立と現場指揮
1856(安政3)年、51歳の俊斎は仙台藩の侍医に抜擢される。そして1857(安政4)年、52歳の俊斎の自宅に、玄朴や戸塚静海ら10人の蘭方医が集結、江戸に種痘所を開設するための密命会議を開く。彼らは幕閣の開明派・川路聖謨に働きかけ、体制内での医療拠点構築へと動き出す。
1858(安政5)年、玄朴ら83名の蘭方医の私財拠出により、江戸に「お玉が池種痘所」が設立される。俊斎は53歳にして、その初代所長に就任する。ついに幕府による蘭方医学の解禁が実現したのである。
だが設立からわずか半年後の同年11月、神田からの出火により種痘所は焼失してしまう。俊斎は直ちに自らの家と玄朴の家を臨時の種痘所とし、業務を一日も止めることなく継続する。翌1859(安政6)年、54歳の彼は、三宅艮斎の依頼を受けた濱口梧陵から莫大な寄付を受け、種痘所を再建する。
第三章 最高責任者への上り詰めと東京大学医学部への系譜
1860(万延元)年、55歳の俊斎は将軍・徳川家茂に拝謁、仙台藩医から幕府医師へと登用される。
翌1861(文久元)年、種痘所は幕府直轄の「西洋医学所」へと発展する。56歳の俊斎は、その初代頭取に就任した。現在の東京大学医学部の源流であり、彼はその初代総長として組織を統率する。回向院での解剖の実施など、物理や化学に基づく本格的な西洋医学の実践と教育を国家の中枢で推し進める。政治折衝を担う玄朴と連携し、俊斎は実務の最高責任者として現場の体制を盤石なものに築き上げた。
しかし1862(文久2)年、57歳の俊斎は病に倒れ、この世を去る。彼が構築した西洋医学所の第2代頭取には、長崎遊学時代からの盟友・緒方洪庵が迎えられた。地方の学僕から身を起こし、東京大学医学部の源流の頂点に上り詰めた男。彼が現場で指揮を執り創り上げた医療と教育の拠点は、そのまま明治新政府に引き継がれ、日本の近代医療体制の揺るぎない土台として今も脈打っている。
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