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ダイガクコトハジメ - 坪内逍遥

坪内逍遥

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年表

坪内逍遥

つぼうちしょうよう

1859(安政6)年6月22日(旧暦・5月22日) - 1935(昭和10)年2月28日

小説家・評論家・劇作家・翻訳家、東京専門学校(現・早稲田大学)創立協力・教授、『小説神髄』・『当世書生気質』著作、シェイクスピア全集翻訳ほか、東京専門学校創立者の大隈重信小野梓を支え「早稲田四尊」と称される

  • 1859(安政6)年6月22日(旧暦・5月22日) 坪内逍遥(1歳)、美濃国加茂郡太田宿(現・岐阜県美濃加茂市)に父・尾張藩士太田代官所手代の子として生まれる。明治維新、実家のある名古屋の笹島村へ戻る。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 坪内逍遥(11歳頃)、父から漢学を学ぶ。また母の影響を受け、貸本屋通い、読本・草双紙などの江戸戯作や俳諧、和歌に親しむ。滝沢馬琴に心酔。

  • 坪内逍遥、愛知外国語学校入学。

1877(明治10)年4月12日 東京大学創立

東京開成学校本科東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。

法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。

  • 坪内逍遥、東京大学在学中、高田早苗や市島春城・小田一郎・石渡敏一などと共に、神保町の天ぷら屋に通う。この時の経験が、後の『当世書生気質』の題材に。

  • 1880(明治13)年 坪内逍遥(22歳)、ウォルター・スコット『ランマームーアの花嫁』の翻訳、『春風情話』刊行。​​

  • 1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、当時急進的過ぎるとされていたイギリス型政党内閣制案を伊藤博文への事前相談無しに、独自に提出。伊藤博文大隈重信を警戒するように。また、「北海道開拓使官有物払い下げ問題」への反対集会が各地で開催される騒動が起きていたが、大隈重信も反対論者であった。慶應義塾出身者も演説会や新聞でこの問題の批判を展開している者が多く、反対運動について政府関係者に大隈重信福澤諭吉慶應義塾の陰謀説が浮上。明治十四年の政変の引き金に。

1881(明治14)年10月 明治十四年の政変

自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すドイツ型のビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶応義塾門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。

政府から追い出され下野した福澤諭吉慶応義塾門下生らは『時事新報』を立ち上げ。実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に創立。

  • 1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、明治十四年の政変、自由民権運動に同調。国会開設意見書を提出、早期の憲法公布と国会の即時開設を説く。一方、開拓使官有物払下げを巡り、かつての盟友である伊藤博文ら薩長勢と対立。自身の財政上の失政もあり、参議を免官に。下野。

1881(明治14)年10月12日 国会開設の勅諭

自由民権運動の高まりを受け、また明治十四年の政変による政府批判の鎮静化を目的に。明治天皇が「10年後の1890(明治23)年に議員を召して国会を開設すること」・「その組織や権限は自ら定めて公布する(欽定憲法)こと」を勅諭。政府は政局の主導権を取り戻す一方、自由民権運動は国会開設に向けた政党結成に向かうことに。

  • 大隈英麿留学時代に得た学識を活用、理学系の学校を興すことを大隈重信に持ち掛ける。鷗渡会同志との協議の結果、政治経済や法律を教授する学校の設立に方針転換。

  • 1882(明治15)年4月 小野梓(31歳)大隈重信より鷗渡会会員に学校設立の話が持ちかけられる。来る立憲政治の指導的人材養成を主たる目的として学校設立を構想。鷗渡会が創立を支援。

  • 1882(明治15)年10月21日 小野梓(31歳)、「学問の独立」・「学問の活用」・「模範国民の造就」を謳い、東京専門学校(現・早稲田大学)創立に参画。「学問の独立」宣言、一国の独立は国民の独立に基き、国民の独立は其精神の独立に根ざす。而して国民精神の独立は実に学問の独立に由るものであるから、其国を独立せしめんと欲せば、必ず先づその精神を独立せしめざるを得ず。しかしてその精神を独立せしめんと欲せば、必ず先ず其学問を独立せしめなければならぬ。これ自然の理であつて、勢のおもむくところである。

  • 東京専門学校、「学問の独立」を掲げるも、明治政府より大隈重信率いる自由民権運動政党・立憲改進党系の学校と見做される。判事・検事および東京大学教授の出講禁止措置など、様々な妨害・圧迫が加えられる。講師の確保にも窮する状態が続き、一時は同じく英法学系で新設の英吉利法律学校(現・中央大学)との合併話が持ち上がるなど、学校存続の危機に。

 

  • 1882(明治15)年 市島謙吉(23歳)東京専門学校創立参画。『内外政党事情』発刊も、翌年廃刊。越後に戻り、『高田新聞』立ち上げ。論弁を振るう。

  • 1884(明治17)年 坪内逍遥(26歳)、ウォルター・スコット『湖上の美人』の翻訳、『泰西活劇 春窓綺話』出版。

  • 1884(明治17)年 坪内逍遥(26歳)、シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』の翻訳、『該撒奇談 自由太刀余波鋭鋒』出版。

  • 1885(明治18)年 坪内逍遥(27歳)、評論『小説神髄』発表。小説を美術・芸術として発展させるため、江戸時代の勧善懲悪の物語を否定。「小説はまず人情を描くべきで、世態風俗の描写がこれに次ぐ」と論じる。この心理的写実主義により、日本の近代文学の誕生に大きく貢献。また、その理論を実践すべく、小説『当世書生気質』著作。しかし自身がそれまでの戯作文学の影響から脱しきれておらず、近代文学観が不完全なものに終っていることを、後に二葉亭四迷『小説総論』・『浮雲』によって批判的に示される。

  • 1886(明治19)年2月 二葉亭四迷(23歳)坪内逍遥を訪ね、以後毎週通うように。坪内逍遥の勧めで『小説総論』を『中央学術雑誌』に発表。また、ツルゲーネフ『父と子』の一部を訳していたが、未発表に終わる。

  • 1887(明治20)年 二葉亭四迷(24歳)、『新編浮雲』第一篇を、坪内雄蔵(坪内逍遥の本名)名義で刊行。「はしがき」で初めて、二葉亭四迷を名乗る。筆名の由来は、処女作『浮雲』に対する卑下、特に坪内逍遥の名を借りて出版したことに対し、自身を「くたばって仕舞え」と罵ったことによる。

  • 二葉亭四迷、処女小説『浮雲』(第一篇~第三篇)は、第三篇以降の草案があったため未完に終わった作品として紹介されていることも。写実主義の描写と言文一致の文体で、当時の文学者たちに大きな影響を与える。先立って書かれた坪内逍遥『当世書生気質』に色濃く残っていた戯作文学の影響を排し、日本の近代小説の始まりを告げたとされる。

  • 1889(明治22)年 坪内逍遥(31歳)、徳富蘇峰の依頼により、『国民之友』に『細君』発表。以後、小説執筆を断つ。

  • 1890(明治23)年 坪内逍遥(32歳)、シェイクスピアと近松門左衛門の本格的な研究に着手。

 

  • 1890(明治23)年9月 坪内逍遥(32歳)、東京専門学校文学科誕生。シェイクスピア講義は東京専門学校独自のものであり、花形講師に。後に、「早稲田といえば文科」と言われるほどに。

  • 1891(明治24)年 坪内逍遥(33歳)、雑誌『早稲田文学』創刊。

  • 1897(明治30)年 坪内逍遥(39歳)、戯曲として新歌舞伎『桐一葉』・『沓手鳥孤城落月』『お夏狂乱』・『牧の方』など書く。演劇の近代化に貢献。

  • 1902(明治35)年9月2日東京専門学校、専門学校令に基づき、専門学校に。将来の大学昇格を展望して組織改編、早稲田大学に改称。

1903(明治36)年3月27日公布 専門学校令

中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。

予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。

  • 1904(明治37)年4月専門学校令に基づき、早稲田大学発足。大学部に政治経済学科・法学科・文学科に加えて、商科新設。

  • 1906(明治39)年 坪内逍遥(48歳)、島村抱月らと文芸協会開設。新劇運動の先駆けに。

  • 1909(明治42)年 - 坪内逍遥(51-歳)、『ハムレット』に始まり、『詩編其二』に至るまで。独力でシェイクスピア全作品を翻訳刊行。

  • 1913(大正2)年 坪内逍遥(55歳)、戯曲『役の行者』完成。出版予定も、島村抱月と松井須磨子の恋愛事件があり、急遽出版中止。

  • 1916(大正5)年 坪内逍遥(58歳)、『役の行者』の改訂作『女魔神』を『新演芸』誌に発表。翌年『役の行者』の題で出版。

  • 1920(大正9)年 坪内逍遥(62歳)、吉江喬松により、『役の行者』を「レルミット」(l'Ermite) の題でフランス語訳、出版。詩人アンリィ・ド・レニュらにより賞賛を得る。

  • 1922(大正11)年 坪内逍遥(64歳)、再改訂作『行者と女魔』発表。

  • 1924(大正13)年 坪内逍遥(66歳)、初稿『役の行者』、築地小劇場で最初の創作劇として上演、高い世評を得る。

  • 1932(昭和7)年 坪内逍遥(74歳)、挿絵も自身の手による絵巻物『神変大菩薩伝』発表。

 

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