top of page

ダイガクコトハジメ - 古賀穀堂 - 大学の始まり物語

古賀穀堂
大学事始文庫_KDP (17).png

このページをシェアする

古賀穀堂

  • 古賀穀堂|大学事始「大学の 始まり”物語。」

年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約3,000文字(読了目安:5-10分程度)​

​「佐賀藩教育改革、国家百年の計」

古賀穀堂の大学“始まり”物語

序章 佐賀藩校「弘道館」の誕生

 1778(安永7)年、肥前佐賀藩にて古賀穀堂が生まれる。父は江戸幕府の昌平坂学問所で学問統制を主導し、「寛政の三博士」の一人に数えられる儒学者・古賀精里である。


 1781(天明元)年、穀堂が4歳の時、父・精里は第8代藩主・鍋島治茂の命を受け、佐賀城下に藩校「弘道館」を創立する。朱子学を正学とし、武士の魂を磨く知の拠点。穀堂はこの父が築いた学び舎の空気の中で育つ。


 1797(寛政9)年、20歳の穀堂は、幕府に招聘され昌平坂学問所の学官となった父を追って江戸へ向かう。精里の厳格な指導のもとで研鑽を積む一方、彼は父が排斥した他学派の知識人とも広く交流、柔軟な実学の素養を身につけていく。

 

第一章 教育予算三倍の提言


 1806(文化3)年、29歳の穀堂は佐賀に帰藩、父が創設した弘道館の教授に就任する。当時の佐賀藩は財政破綻の危機にあり、教育予算の削減が議論されていた。


 これに対し穀堂は、第9代藩主・鍋島斉直に意見書『学政管見』を提出。「教育予算は削るのではなく、逆に三倍に増やすべきである」と断じたのである。教育こそが国を救う唯一の道。彼は儒学だけでなく医学や蘭学の振興を求め、次代を担う人材を育てる「百年の計」を藩政の最優先事項に据えた。


 1819(文政2)年、42歳の穀堂は世子・貞丸(のちの第10代藩主・鍋島直正)の側頭(教育係)に抜擢される。父・精里が創った弘道館の教えを伝えると共に、若き直正に西洋技術の導入と世界情勢を見据えた実学の重要性を徹底的に叩き込んだ。

 

第二章 未曾有の危機と弘道館改革


 1830(天保元)年、直正が16歳で第10代藩主に就任する。しかし、藩政は保守勢力の抵抗により停滞していた。53歳の穀堂は年寄相談役として直正を支える。翌1831(天保2)年には再び意見書『済急封事』を提出。『葉隠』の精神論に固執する藩内の風潮を痛烈に批判、身分不問の人材抜擢を訴えた。


 1835(天保6)年、佐賀城二の丸が大火で全焼する。直正と穀堂はこの危機を好機へと転じさせた。城の再建に乗じて歳出削減を断行するとともに、上級藩士子弟の弘道館への出仕を義務化。さらに医学館医学寮(のちの好生館)を設立し、実学による藩政改革を一気に加速させていく。

 

第三章 国家百年の計


 1836(天保7)年、穀堂は病に倒れ、59歳でこの世を去る。直正はその死を「父子親の如し」と嘆き、恩師の遺志を完璧なまでに実行に移した。


 1840(天保11)年、26歳の直正は弘道館を北堀端に移転、大規模に拡充する。かつて穀堂が『学政管見』で提言した「三倍」という要求すら遥かに凌駕、教育予算を170石から約6倍の1,000石へと加増。精里が創り、穀堂が思想を吹き込んだ弘道館は、ここで真の完成を見たのである。


 この巨大な知の揺りかごからは、大隈重信江藤新平大木喬任・副島種臣といった、明治国家を設計する英傑たちが次々と輩出された。父・精里が種をまき、穀堂が育て、名君・直正が開花させた弘道館の教え。それは単なる藩校の枠を超え、近代日本の教育と法制度を支える巨大な礎となった。まさに、国家百年の計の結実である。
​​

大学事始文庫_KDP (17).png
bottom of page