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前島密
年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約2,000文字(読了目安:5分程度)
「日本近代郵便の父」
前島密の教育“始まり”物語
序章 乱世に芽生えた実学の志
激動の幕末、前島密は越後国の豪農の家に生を受けます。1835年、1歳の時に父を亡くし、母方の叔父である糸魚川藩医・相沢文仲に養われることになりました。この生い立ちが、彼に医学を志させ、早くから西洋の実学に触れる機会を与えました。1847年、13歳にしてオランダ医学を学ぶために江戸へと向かいます。そこで蘭学や英学を貪欲に吸収、後には儒学者・安積艮斎の門下にも名を連ねるなどその知的好奇心は留まることを知りませんでした。
1853年、黒船来航は日本全土に衝撃を与え、前島密の人生をも決定付けます。ペリー来航時に接見役の従者として浦賀港に赴き、日本の国防の脆弱さを目の当たりにしました。この国難は、彼に西洋の技術と知識の必要性を強く認識させ、その後の行動原理となります。観光丸運用長・竹内卯吉郎から機関学を学び、軍艦教授所の生徒として観光丸に乗船。さらに航海術を学ぶため箱館へ赴き、武田斐三郎の諸術調所で海軍兵学を修めました。これらの経験は、彼が日本の近代化に貢献するための実践的な知識と技術を深める礎となりました。
1862年、長崎の地。前島密は後に日本の近代化を牽引する大隈重信・副島種臣らと共に、アメリカ人宣教師チャニング・ウィリアムズの私塾で英学を学びます。この長崎での出会いが、後の「築地梁山泊」へと繋がる、日本の未来を担う若き俊英たちとの重要な交流の始まりとなります。また教育者への道は、意外なきっかけから始まりました。何礼之の従者として文久遣欧使節団への洋行を試みるも、乗船した船の故障により失敗に終わります。しかしこの挫折を契機に、何礼之が長崎で拓いた私塾の塾長に就任することとなります。さらに苦学生のために、瓜生寅と共に私塾・倍社を拓きました。翌年には薩摩藩洋学校・開成所の蘭学講師を務めるなど、教育を通じて次世代を育成することに情熱を注ぎました。
第一章 情報と文字が拓く文明の道
1866年、前島密は幕臣・前島家の養子となり、前島来輔と改名します。幕府体制の中で日本の近代化に貢献する立場を得ました。この年、彼の先見性が際立つ大胆な提言がなされます。彼は将軍・徳川慶喜に対し、日本の教育と文化の根幹に関わる『漢字御廃止之議』を提出しました。これは漢字の複雑さが教育普及の妨げとなっていると見抜き、日本語の表記改革を通じて国民全体の識字率向上を目指すという、彼の早くからの教育への強い意識を示すものでした。
そして迎えた、明治維新。混乱極める中、旧幕臣の立場にありながらも民生の安定に尽力しました。1868年には兵庫奉行支配役を務め、大阪で大久保利通に江戸遷都を建言するなど、日本の将来を見据えた大局的な視点を持っていました。この頃に徳川家は駿府へ移住、それに伴い旧幕臣も駿府に移住を余儀なくされます。前島密も駿府移住、駿河藩用人などを務めました。1869年、彼は明治政府の招聘に応じて民部省・大蔵省に出仕、前島密と改名します。ここで彼は、大隈重信の邸宅に集まる「築地梁山泊」の一員となります。大隈重信・伊藤博文・井上馨・渋沢栄一ら、日本の近代国家建設の青写真を描く若きリーダーたちが日々その知を交流させ、前島密もその中心で新しい日本の姿を模索します。
前島密の最も偉大な功績の一つは、日本の近代的郵便制度の創設にあります。1870年、駅逓権正を兼任。太政官に郵便制度創設を建議しました。そして郵便制度視察と鉄道建設借款契約締結のためイギリスへ、欧米の先進的な制度を学びます。1871年に帰国すると、駅逓頭に就任。東京・京都・大阪間で官営の郵便事業を開始しました。量目制による料金均一主義の料金制度を全国で実施、日本の近代的郵便制度の基礎を確立しました。全国津々浦々に情報を届ける郵便制度の影響は、単なる通信インフラの整備に留まりませんでした。国民の知識や教養を高める上で不可欠な「文明開化の象徴」として、広義の教育普及に多大な貢献を果たします。さらに1872年に陸海元会社(現・日本通運)設立や郵便報知新聞(現・報知新聞社)刊行に関わります。1873年には自ら『まいにちひらがなしんぶんし』を創刊するなど、情報伝達と社会啓蒙の新たな形を模索し続けました。
内務省にて駅逓局長、さらには駅逓総監、内務大輔と政府要職を歴任します。その一方で、1877年の第1回内国勧業博覧会審査官長を務めるなど、日本の産業振興にも貢献しました。
第二章 学問の独立を支える精神の礎
前島密の教育への情熱は、社会のあらゆる層へと向けられました。1875年、日本初の盲学校設立の動きが始まる中、盲人教育の必要性から楽善会が発足します。翌年に楽善会訓盲院設立認可が下り東京府から下賜金が与えられると、小松彰・杉浦譲・山尾庸三らと共に楽善会に加わります。彼はこの活動に深く関わり、視覚・聴覚に障害を持つ人々への教育という当時としては極めて先進的な分野の教育推進を担いました。
1881年、明治十四年の政変により盟友・大隈重信が政府を追放され下野すると、前島密もこれに同調して内務省を辞しました。1882年3月、大隈重信が立憲改進党を結成、これに参画します。在野での政治活動の中、来るべき立憲政治の担い手・指導者を養成するための学校を設立すべきと構想が持ち上がります。そして、1882年10月21日。大隈重信の英国流の近代国家建設という政治展望の一事業として、東京専門学校が誕生します。しかし、その船出は苦難の連続となります。明治政府から立憲改進党系の学校と見做され、様々な妨害や圧迫に直面。その存続が危ぶまれる事態に陥りました。
前島密が大隈重信請われて東京専門学校の第2代校長に就任したのは、学校存続が危ぶまれる最中でした。「学問の独立」という精神的な礎を守り、学園の存続を果たす、その重責を担うこととなったのです。
前島密の功績は日本の近代的郵便制度の基礎を確立、「日本近代郵便の父」として語られます。一方で、情報通信の近代化による教育普及、文字改革や盲唖教育の挑戦、そして大隈重信と共に東京専門学校の「学問の独立」を守り育てるなど、先見の明を持って教育の新境地を切り拓いたのでした。


