
伊東玄朴
年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約3,000文字(読了目安:5-10分程度)
「幕府権力の中枢へ、東京大学医学部の源流を創る」
伊東玄朴の大学”始まり”物語
序章 鎖国下の長崎とシーボルト事件の衝撃
1801(享和元)年、肥前国(現在の佐賀県)の仁比山神社に仕える武士の子として伊東玄朴が生まれる。のちに伊東家の養子となった彼は、佐賀城下の蘭方医・島本良順に入門、医学の道を歩み始めた。
時代は、幕府の強力な鎖国政策の下にあった。1824(文政7)年、唯一の開港地である長崎の出島に、オランダ陸軍軍医のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが来日する。シーボルトは特別に郊外への外出を許され、私塾「鳴滝塾」を設立。若き玄朴はこの塾へと赴き、本場のオランダ医学と自然科学を吸収する。
1826(文政9)年、26歳の玄朴はオランダ商館長の江戸参府に随行するシーボルトと共に江戸へ向かい、そのまま江戸に留まって諸国の蘭学者たちと交流を深めた。しかし1828(文政11)年、恩師シーボルトが国外持ち出し厳禁の日本地図を所持していたとして国外追放となる「シーボルト事件」が勃発する。地図を贈った幕府天文方・高橋景保は獄死、数多くの蘭学者が処罰された。玄朴は連座を免れたものの、洋学を取り巻く環境の危うさを身をもって知ることとなる。国家の機密と学問の自由が激しく衝突した、蘭学受難の時代。
第一章 佐賀藩主・鍋島直正との連帯と種痘
1831(天保2)年、31歳の玄朴は佐賀藩の医官として士分に昇格する。江戸に蘭学塾「象先堂」を創立、のちに日本赤十字社を創設する佐野常民など、数多くの門人を育成した。
この頃、玄朴の主君である佐賀藩第10代藩主・鍋島直正(鍋島閑叟)は、破綻状態にあった藩財政の立て直しと、西洋技術の導入による軍事・教育改革を強力に推し進めていた。1843(天保14)年、43歳の玄朴は直正の侍医として召し抱えられる。
数年後、日本全土で天然痘が大流行する。1849(嘉永2)年、49歳の玄朴は直正に対し、長崎出島のオランダ商館を通じて「牛痘種痘苗」を入手するよう進言する。直正はこの進言を入れ、佐賀藩は痘苗の入手に成功。直正自らが嫡子への接種を命じ、見事に成功を収めた。佐賀藩が漢方から蘭方医学へと歴史的な転換を遂げた瞬間である。
時を同じくして、この長崎の痘苗は各地の蘭方医の手へ渡る。大坂では適塾を主宰する緒方洪庵が除痘館を設立して接種を開始、江戸では玄朴らが接種を実施した。
だが、その躍進は旧体制の反発を招く。同1849(嘉永2)年、漢方医の働きかけにより幕府は「蘭書翻訳取締令」を発布。幕府医師の蘭方使用は禁じられ、医学書の出版も制限された。
第二章 幕府権力の中枢へ
1853(嘉永6)年、ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航する。黒船の武力を前に、幕府は方針転換を余儀なくされた。
この国家の動揺を機に、蘭方医たちは動く。1858(安政5)年、58歳の玄朴は、大槻俊斎や戸塚静海ら83名の蘭方医の私財拠出を取りまとめ、江戸に「お玉が池種痘所」の設立を実現させる。のちに東京大学医学部へと直結する、巨大な知の拠点の誕生。
同年7月、幕府はついに蘭方医学を解禁する。将軍・徳川家定の重病に際し、玄朴は蘭方医として初めて幕府の奥医師(将軍の主治医)に抜擢された。旧態依然とした漢方医の牙城であった権力の中枢へ、蘭方医が食い込んだのである。玄朴はこの立場を利用し、直ちに伊東寛斎らの奥医師増員を実現させる。さらにコレラ流行時には、蘭方医の幕府採用を次々と申請、中枢における西洋医学の勢力を急速に拡大していった。体制の外から吠えるのではなく、権力の内側に入り込み、医療行政のシステム自体を書き換える実務を断行する。
第三章 医学界の頂点と東京大学医学部への系譜
玄朴らの私財で立ち上げた種痘所は、1861(文久元)年、幕府直轄の「西洋医学所」へと発展する。
1862(文久2)年、62歳の玄朴は西洋医学所の取締役に就任した。同年、初代頭取であった盟友・大槻俊斎が死去する。玄朴はその後任として、大坂で長年種痘事業を牽引してきた実績を持つ緒方洪庵を、第2代頭取として幕府に推挙した。玄朴の推挙により、洪庵の江戸への招聘が実現することになる。
同年12月、玄朴は蘭方医として初めて最高位である「法印」に進み、長春院と号した。一介の藩医から身を起こし、名実ともに日本医学界の頂点に立つ。
しかし1863(文久3)年、63歳の玄朴は、西洋医学所の若き頭取助・松本良順の弾劾に遭い、失脚する。激動の時代における権力闘争の果てに、彼は表舞台から姿を消した。
1871(明治4)年、伊東玄朴は71歳でこの世を去る。だが、彼が権力の中枢をこじ開けて創り上げた西洋医学所は、明治新政府に引き継がれ、現在の東京大学医学部へと発展した。実証的な医療の拠点を国家の中心に据えようとした男の執念は、日本の近代医療システムの根幹として、今も揺るぎなく脈打っている。
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