ダイガクコトハジメ - 二葉亭四迷

出身校
- 名古屋藩校・明倫堂
- 洋学校
- 東京外国語学校露語科
- 専修学校
- 東京商業学校第三部露語科
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参考情報
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参考文献・書籍
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年表 | 動画
二葉亭四迷
ふたばていしめい
1864(文久4/元治元)年4月4日(旧暦・2月28日) - 1909(明治42)年5月10日
小説家・翻訳家、東京外国語学校ロシア語科教授、陸軍大学校露語科教示嘱託、海軍大学校露語教授嘱託
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1864(文久4/元治元)年4月4日(旧暦・2月28日) 二葉亭四迷(1歳)、江戸市ヶ谷合羽坂の尾張藩上屋敷に鷹狩り供役を勤める尾張藩士・長谷川吉数と母・志津の子として生まれる。本名、長谷川辰之助。
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二葉亭四迷(4歳)、母の実家後藤家のある名古屋に。野村秋足の塾で漢学を学ぶ。
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1871(明治4)年 二葉亭四迷(8歳)、名古屋藩校・明倫堂入学。林正十郎らにフランス語を学ぶ。
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1872(明治5)年 二葉亭四迷(9歳)、名古屋藩校・明倫堂卒業。下級官吏となった父の異動に伴い、松江に。内村友輔から漢学を学ぶ。
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1873(明治6)年3月、外務省、独逸学教場設置。
1873(明治6)年4月 学制二編追加
「専門学校」について、外国教師によって教授する高尚な学校とした。法学校・医学校・理学校・諸芸学校・鉱山学校・工業学校・農業学校・商業学校・獣医学校等に区分。「大学」と同じく、卒業者には学士の称号を与えることを定める。
「外国語学校」について、外国語学に熟達するのを目的とし、専門学校に進学するもの、あるいは通弁(通訳)を学ぼうとするものを入学させるとした。
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1873(明治6)年4月10日、学制条文追加に伴い、第一大学区第一番中学校は専門学校へと改組。第一大学区開成学校に。教授言語が原則として英語に統一されることとなる。
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1873(明治6)年5月、外務省、独魯清語学所を文部省に移管。外国語学所と改称。
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1873(明治6)年8月、開成学校、従来の「語学課程」(普通科)に加え、「専門学課程」(専門科)新設。法学・化学・工学・鉱山学・諸芸学の五科が設置される。法学・化学・工学が英語で教授されたが、鉱山学はドイツ語、諸芸学はフランス語で授業が行われ、残留していた独仏語専修の学生に対する移行措置とされた。当2学科について、学生の卒業に伴い順次廃止。
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1873(明治6)年11月4日、学制二編追加により、開成学校より「語学課程」(普通科)が分離独立。開成学校語学課程(英・独・仏の3科)・独逸学教場・外国語学所を統合。東京外国語学校(東京外国語大学の源流)創立、官立最初の語学学校に。翌1874年までに全国に8校の官立外国語学校が設立される。
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東京外国語学校、英・仏・独・清(中国)・魯(ロシア)の5語科を設置(後に英語科が分離)。朝鮮語科を増設。高等教育の基礎としての外国語教育と通訳養成教育の二重の役割を果たす。
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1873(明治6)年末、東京外国語学校、開成学校が教授言語を原則として英語に統一したことにあわせて、東京外国語学校英語科を東京英語学校として独立。
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1874(明治7)年5月、東京開成学校に改称。法学・化学・工学3科よりなる修業年限3年ないし4年の本科に再編される。加えて、修業年限3年の予科が設けられる。
1877(明治10)年4月12日 東京大学創立
東京開成学校本科と東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部が錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。
法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。
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1877(明治10)年、東京英語学校と東京開成学校予科が統合、東京大学予備門(後に第一高等中学校・第一高等学校)設立。「専門学科ニ昇進スヘキ生徒ニ階梯ヲアタヘ予備学ヲ教授スルノ旨趣」とされ、東京大学法・理・文三学部入学のための基礎教育・語学教育を施す教育機関に。当初、東京大学医学部は別に予科を設ける。
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1878(明治11)年 二葉亭四迷(15歳)、ロシアとの千島樺太交換条約を受け、ロシアに対する日本の危機感を持つ。軍人を志し、陸軍士官学校を3度受験するも、不合格に。軍人となることを諦め、外交官となる決意をする。
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1881(明治14)年5月 二葉亭四迷(18歳)、外交官を目指し、東京外国語学校露語科入学。ロシア語を教授したレフ・メーチニコフ、黒野義文、古川常一郎の影響で、次第にロシア文学に心酔するように。
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1883(明治16)年2月1日 - 1885(明治18)年12月25日 二葉亭四迷(20-22歳)、専修学校で学ぶ。
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1885(明治18)年9月、高等教育の基礎としての外国語教育について、英・仏・独3語科は東京大学予備門に合併。英・仏・独以外の語学科が東京商業学校(現・一橋大学)に合併される。東京外国語学校(旧外語)は廃止に。東京商業学校への合併に対し、東京外国語学校学生が激しく反発、中退者も出現。
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1885(明治18)年 坪内逍遥(27歳)、評論『小説神髄』発表。小説を美術・芸術として発展させるため、江戸時代の勧善懲悪の物語を否定。「小説はまず人情を描くべきで、世態風俗の描写がこれに次ぐ」と論じる。この心理的写実主義により、日本の近代文学の誕生に大きく貢献。また、その理論を実践すべく、小説『当世書生気質』著作。しかし自身がそれまでの戯作文学の影響から脱しきれておらず、近代文学観が不完全なものに終っていることを、後に二葉亭四迷『小説総論』・『浮雲』によって批判的に示される。
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1886(明治19)年1月 二葉亭四迷(23歳)、東京外国語学校露語科が改組された東京商業学校第三部露語科に通うも、合併に反対。東京商業学校校長・矢野二郎に対し悪感情を持つように。中退。
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1886(明治19)年2月 二葉亭四迷(23歳)、坪内逍遥を訪ね、以後毎週通うように。坪内逍遥の勧めで『小説総論』を『中央学術雑誌』に発表。また、ツルゲーネフ『父と子』の一部を訳していたが、未発表に終わる。
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1887(明治20)年 二葉亭四迷(24歳)、『新編浮雲』第一篇を、坪内雄蔵(坪内逍遥の本名)名義で刊行。「はしがき」で初めて、二葉亭四迷を名乗る。筆名の由来は、処女作『浮雲』に対する卑下、特に坪内逍遥の名を借りて出版したことに対し、自身を「くたばって仕舞え」と罵ったことによる。
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二葉亭四迷、処女小説『浮雲』(第一篇~第三篇)は、第三篇以降の草案があったため未完に終わった作品として紹介されていることも。写実主義の描写と言文一致の文体で、当時の文学者たちに大きな影響を与える。先立って書かれた坪内逍遥『当世書生気質』に色濃く残っていた戯作文学の影響を排し、日本の近代小説の始まりを告げたとされる。
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二葉亭四迷、ロシア語が堪能で、同時代のロシア写実主義文学を翻訳・紹介。ツルゲーネフ『猟人日記』の一部を訳した「あひゞき」は、その自然描写の文体が多くの作家に影響を与える。
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1887(明治20)年 二葉亭四迷(24歳)、閣官報局の官吏となり、筆を折る。社会主義の影響から、貧民救済策について考える。貧民街に出入りするうち、出会った娼婦が最初の妻福井つね。貧民救済への関心は、のちに貧民問題や労働問題を扱うジャーナリストとなる松原岩五郎や横山源之助との交友を生み、影響を与えることに。
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1895(明治28)年 二葉亭四迷(32歳)、陸軍大学校露語科教示嘱託に。
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1897(明治30)年4月22日、第9帝国議会にて、衆議院・貴族院が外国語学校開設を建議。日清戦争後、露・中・朝など極東諸国との交流が密になることを予測し、外交・商業の実務者育成を提言するものであった。高等商業学校(現・一橋大学)に高等商業学校附属外国語学校設置。
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1899(明治32)年 二葉亭四迷(36歳)、再び東京外国語学校(新外語)が設立される。旧制東京外国語学校時代の恩師・古川常一郎の推薦を受け、ロシア語科教授に。
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1901(明治34)年 二葉亭四迷(38歳)、海軍編修書記を経て、海軍大学校露語教授嘱託に。
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1904(明治37)年3月 二葉亭四迷(41歳)、大阪朝日新聞に入社。東京出張員に。その仕事にはあまり向かず、東京朝日新聞社主筆・池辺三山のはからいで、東京朝日に移籍。小説連載。『其面影』や『平凡』を発表、読者からは大好評で迎えられる。
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1906(明治39)年 二葉亭四迷(43歳)、ロシア滞在中、エスペラントに学ぶ。日本で入門書を出版。
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1908(明治41)年 二葉亭四迷(45歳)、朝日新聞特派員として、ロシア赴任。駐在中、東京外国語学校時代のロシア語恩師・黒野義文が教壇に立つペテルブルクへ向かう。
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1908(明治41)年 二葉亭四迷(45歳)、森鴎外『舞姫』・国木田独歩『牛肉と馬鈴薯』の露訳を行う。白夜のために不眠症に悩まされ、ウラジーミル大公の葬儀のために雪の中でずっと立っていたことが災いし、発熱。肺炎・肺結核におかされ、死を予感。妻や祖母宛に遺言状を書く。友人の説得で帰国。
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1909(明治42)年5月10日 二葉亭四迷(46歳)、ロシア赴任からの帰国途中、ベンガル湾上で死去。享年46歳。
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