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ダイガクコトハジメ - 九鬼隆一 - 大学の始まり物語

九鬼隆一

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  • 九鬼隆一|大学事始「大学の 始まり”物語。」

年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約2,000文字(読了目安:5分程度)​

​「九鬼の文部省」

九鬼隆一の大学“始まり”物語

序章 福澤諭吉の薫陶、文部官僚への道


 封建の時代が終わりを告げんとしていた、江戸幕末。1852年、摂津国三田藩士の家に生まれます。その運命が大きく動き出したのが、三田藩の藩政改革に携わる啓蒙思想の巨人・福澤諭吉との出会い。1869年、藩主と共に上京した九鬼隆一は、福澤諭吉の門を叩き慶應義塾への入塾を果たしました。

 そこで彼が学んだのは、実社会に貢献し国家の発展を担うという、
福澤諭吉が説く「実学」の精神そのものでした。自らは生涯在野を貫いた福澤諭吉でしたが、日本の未来を憂い、門下から多くの俊英を新政府に送り込みます。「大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク」。1871年に新設された文部省への支援も手厚く、師の強い推薦の下、白根専一・渡辺洪基濱尾新らと共に出仕することになります。日本の近代化の使命を担った文部省にて、国の教育制度を設計・構築するという壮大な事業への踏み出しました。

第一章 文部省での異例の出世、美術行政への転身

 九鬼隆一がその手腕を発揮、若くして文部省で頭角を現す契機となった機会が訪れます。当時、明治政府は国費を投じて多くの若者を欧米に留学させていましたが、その費用が国家予算を深刻に圧迫していました。留学の打ち切りを決定したものの、特権意識の強い留学生たちは激しい抵抗を示します。その説得という困難な役目に抜擢されたのが、九鬼隆一でした。彼はヨーロッパへ渡り、中江兆民をはじめとする留学生たちと粘り強く交渉を重ね、ついに全員の帰国承諾を取り付けます。この成功は彼の卓越した交渉能力と行政手腕を政府内外に強く印象付け、異例の速さでの出世へと繋がりました。帰国後、新任の文部卿・木戸孝允の下で要職を歴任します。

 九鬼隆一の人生における最大の転機が訪れたのが、1878年。パリ万国博覧会への派遣でした。近代産業の熱気に沸くパリの地で。彼が目の当たりにしたのは、西洋の壮麗な美術品とそれを国家の威信として管理・展示する、ルーヴル美術館に代表される近代的な博物館行政の姿でした。日本の未来のために真に必要なものは、西洋の制度をただ模倣することではない。忘れ去られようとしている自国の偉大な文化遺産を再発見し、それを国民の共有財産として保護・活用するための「制度」を創り上げなければならないと決心します。

 パリでの衝撃が、九鬼隆一を教育行政官僚から近代日本初の本格的な美術行政家へと大きく転身させました。帰国後、文部省内で「九鬼の文部省」と称されるほどの権勢を握った彼は、その力を日本の文化財保護へと注ぎ込みます。アメリカ人学者のアーネスト・フェノロサと若き部下であった岡倉天心の才能をいち早く見抜き、彼らの日本美術復興運動の最も強力な後援者となったのです。

第二章 国宝の創設、理想の実現


 九鬼隆一の情熱は、やがて国家的な文化事業として結実していきます。駐米公使の任を終えて帰国すると、宮内省に移ります。1887年、臨時全国宝物取調掛の委員長に就任。フェノロサや岡倉天心を委員に任命、全国の古社寺に眠る美術品の悉皆調査を敢行しました。それは、後の「文化財保護法」や「国宝」という制度の、まさしく源流となる事業となります。

 1889年、彼は帝国博物館(現在の東京・京都・奈良国立博物館)設立を主導、初代総長に就任します。それは、パリで夢見た日本の文化遺産を国民全体の財産として恒久的に保護、公開研究するための近代的な博物館制度が産声を上げた瞬間でした。また、
岡倉天心の理想を後援、日本の伝統美術を復興させるための官立教育機関・東京美術学校設立にも心血を注ぎます。

第三章 栄光と苦悩、知と美の守護者


 キャリアの絶頂期にあって、公私にわたる最大の苦悩が訪れます。長年にわたり後援、目をかけてきた岡倉天心と自らの妻・波津子との不倫問題が発覚したのです。日本絵画と西洋絵画との深刻な対立も背景に、日本の美術界を揺るがす一大スキャンダルへと発展しました。国家の文化行政を司る重鎮として、九鬼隆一は苦悩の末、岡倉天心東京美術学校校長の職から罷免するという痛恨の決断を下さざるを得ませんでした。岡倉天心を慕う橋本雅邦・横山大観ら教師陣も師を追って退任、世に言う「美術学校騒動」です。岡倉天心と共に築き上げてきた美術行政は大きな転換点を迎え、美術行政の第一線か一歩身を引くこととなります。

 明治の時代が西洋の文物を盲目的に至上したその風潮に逆らい、美術行政家として日本古来の伝統芸術を再発見、
文部省をあげて守り育ててきた九鬼隆一の情熱と手腕。近代日本の知と美の守護者として、日本の歴史に深く刻まれているのです。

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