塾で修行するその時の仕方《しかた》は如何《どう》云《い》う塩梅《あんばい》であったかと申すと、先《ま》ず始めて塾に入門した者は何も知らぬ。何も知らぬ者に如何《どう》して教えるかと云うと、その時江戸で飜刻《ほんこく》になって居る和蘭《オランダ》の文典が二冊ある。一をガランマチカと云い、一をセインタキスと云う。初学の者には先《ま》ずそのガランマチカを教え、素読《そどく》を授《さずけ》る傍《かたわら》に講釈をもして聞かせる。之《これ》を一冊|読了《よみおわ》るとセインタキスを又その通《とおり》にして教える。如何《どう》やら斯《こ》うやら二冊の文典が解《げ》せるようになった所で会読《かいどく》をさせる。
会読と云うことは生徒が十人なら十人、十五人なら十五人に会頭《かいとう》が一人《ひとり》あって、その会読するのを聞《きい》て居て、出来不出来に依《よっ》て白玉《しろだま》を附けたり黒玉《くろだま》を付けたりすると云う趣向で、ソコで文典二冊の素読も済めば講釈も済み会読も出来るようになると、夫《そ》れから以上は専《もっぱ》ら自身|自力《じりき》の研究に任せることにして、会読本の不審は一字半句も他人に質問するを許さず、又質問を試《こころ》みるような卑劣な者もない。
緒方の塾の蔵書と云うものは物理書と医書とこの二種類の外《ほか》に何もない。ソレモ取集《とりあつ》めて僅《わず》か十部に足らず、固《もと》より和蘭から舶来の原書であるが、一種類|唯《ただ》一部に限ってあるから、文典以上の生徒になれば如何《どう》してもその原書を写さなくてはならぬ。銘々に写して、その写本を以《もっ》て毎月六才|位《ぐらい》会読をするのであるが、之《これ》を写すに十人なら十人一緒に写す訳《わ》けに行かないから、誰が先に写すかと云《い》うことは籤《くじ》で定《き》めるので、扨《さて》その写しようは如何《どう》すると云うに、その時には勿論《もちろん》洋紙と云うものはない、皆日本紙で、紙を能《よ》く磨《すっ》て真書《しんかき》で写す。それはどうも埓《らち》が明かないから、その紙に礬水《どうさ》をして、夫《そ》れから筆は鵞筆《がぺん》で以て写すのが先《ま》ず一般の風であった。
斯《こ》う云う次第で、塾中誰でも是非《ぜひ》写さなければならぬから写本は中々上達して上手《じょうず》である。一例を挙《あ》ぐれば、一人《ひとり》の人が原書を読むその傍《そば》で、その読む声がちゃんと耳に這入《はいっ》て、颯々《さっさ》と写してスペルを誤ることがない。斯う云う塩梅《あんばい》に読むと写すと二人掛《ふたりがか》りで写したり、又一人で原書を見て写したりして、出来上れば原書を次の人に廻す。その人が写丁《うつしおわ》ると又その次の人が写すと云《い》うように順番にして、一日の会読分は半紙にして三枚か或《あるい》は四、五枚より多くはない。
引用:『福翁自伝』福沢諭吉
初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号
文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。