適塾適塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -11緒方の書生は学問上の事に就《つい》ては一寸《ちょい》とも怠《おこた》ったことはない。その時の有様《ありさま》を申せば、江戸に居た書生が折節《おりふし》大阪に来て学ぶ者はあったけれども、大阪から態々《わざわざ》江戸に学びに行くと云うものはない。行けば則《すなわ》ち教えると云う...
適塾適塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -10ヅーフの事に就《つい》て序《ついで》ながら云うことがある。如何《どう》かするとその時でも諸藩の大名がそのヅーフを一部写して貰《もら》いたいと云う注文を申込《もうしこん》で来たことがある。ソコでその写本と云うことが又書生の生活の種子《たね》になった。...
適塾適塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -9凡《およ》そ斯《こ》う云う風《ふう》で、外に出ても亦《また》内に居ても、乱暴もすれば議論もする。ソレ故|一寸《ちょい》と一目《いちもく》見た所では――今までの話だけを開《きい》た所では、如何《いか》にも学問どころの事ではなく唯《ただ》ワイ/\して居たのかと人が思うでありまし...
適塾適塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -8扨《さて》その写本の物理書、医書の会読《かいどく》を如何《どう》するかと云うに、講釈の為人《して》もなければ読んで聞かして呉《く》れる人もない。内証《ないしょ》で教えることも聞くことも書生間の恥辱《ちじょく》として、万々一も之《これ》を犯す者はない。唯《ただ》自分|一人《ひ...
適塾適塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -7塾で修行するその時の仕方《しかた》は如何《どう》云《い》う塩梅《あんばい》であったかと申すと、先《ま》ず始めて塾に入門した者は何も知らぬ。何も知らぬ者に如何《どう》して教えるかと云うと、その時江戸で飜刻《ほんこく》になって居る和蘭《オランダ》の文典が二冊ある。一をガランマチ...
適塾適塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -6塾員は不規則と云《い》わんか不整頓と云わんか乱暴|狼藉《ろうぜき》、丸で物事に無頓着《むとんじゃく》。その無頓着の極《きょく》は世間で云《い》うように潔不潔、汚ないと云うことを気に止《と》めない。例えば、塾の事であるから勿論《もちろん》桶《おけ》だの丼《どんぶり》だの皿など...
適塾適塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -5私は塾長になってから表向《おもてむき》に先生|家《か》の賄《まかない》を受けて、その上に新書生が入門するとき先生|家《か》に束脩《そくしゅう》を納めて同時に塾長へも金《きん》貳朱《にしゅ》を呈《てい》すと規則があるから、一箇月に入門生が三人あれば塾長には一分《いちぶ》二朱の...
適塾適塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -4その後私の学問も少しは進歩した折柄《おりから》、先輩の人は国に帰る、塾中無人にて遂《つい》に私が塾長になった。扨《さて》塾長になったからと云《いっ》て、元来の塾風で塾長に何も権力のあるではなし、唯《ただ》塾中一番|六《むず》かしい原書を会読《かいどく》するときその会頭《かい...
適塾適塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -3私は是《こ》れまで緒方の塾に這入《はい》らずに屋敷から通《かよ》って居たのであるが、安政三年の十一月頃から塾に這入《はいっ》て内《ない》塾生となり、是れが抑《そもそ》も私の書生生活、活動の始まりだ。 元来緒方の塾と云うものは真実日進々歩主義の塾で、その中に這入て居る書生は皆...
適塾適塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -1緒方先生の深切。「乃公《おれ》はお前の病気を屹《きっ》と診《み》て遣《や》る。診て遣るけれども乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うて仕舞《しま》う。此《こ》の薬|彼《あ》の薬と迷うて、後《あと》になって爾《そ》うでもなかったと云《いっ》て又薬の加減をすると云《い...