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伴正順

伴正順

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年表

 

伴正順

ばんまさより

1843(天保14)年 - 1908(明治41)年6月14日

文部省官僚、司法省官僚・裁判官、南校現・東京大学)副校長開成学校(現・東京大学)校長、東京外国語学校初代校長、第三第四第五大学区督学事務取扱宮城外国語学校校長

  • 1843(天保14)年 伴正順(1歳)、土佐国潮江村に生まれる。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1868(慶応4/明治元)年 伴正順(26歳)、京都在勤の小目付に。大目付・本山只一郎らと共に、土佐藩に授けられた高松・松山二藩征討のための錦旗を京都から国元へ護送する命を受ける。夜中に神戸を通過しようとしたところ、神戸事件により一帯を占拠していた外国兵に拘束される。錦旗の所在が一時不明となる事態に遭遇。事態収拾後、任務を本山只一郎に託し、兵庫出張中の外国事務掛・寺島宗則、岩下方平らを訪ねて外国人追及を主張。さらに京都藩邸の執政深尾鼎・後藤象二郎にも訴え出たが聞きいれられず。職を辞して高知に帰る。

  • 1868(慶応4/明治元)年2月 伴正順(26歳)、堺事件謝罪のため上京する藩主・山内豊範に随行。

  • 1868(慶応4/明治元)年3月 伴正順(26歳)、新政府の議事所に出仕。土佐藩選出の貢士に抜擢。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

  • 1868(慶応4/明治元)年 伴正順(26歳)、戊辰戦争、土佐藩迅衝隊大軍監として従軍。4月15日、新兵二小隊を率いてイギリス船で大阪を出発。第一次今市戦後の27日、迅衝隊総督・板垣退助らが滞陣する今市に到着。以後、棚倉城・三春城への進軍、二本松の戦い、会津戦争に加わり、迅衝隊諸隊を率いる。二本松城落城後、土佐藩主・山内豊範の姉が米沢藩主上杉斉憲に嫁いでいる関係から、迅衝隊大軍監・谷干城、片岡健吉、との連名で米沢藩に勧降書が送られ、これが同藩の降伏につながる。会津藩降伏後、迅衝隊は東京に凱旋、片岡健吉と共に凱旋兵を率いる。10月30日、高知に戻る。

 

  • 1869(明治2)年5月 伴正順(27歳)、明治新政府が設けた公議所の公議人に。外国交際分課担当。公議所が集議院に改組、議員を務める。

  • 1870(明治3)年12月 伴正順(28歳)、明治新政府が高知藩を含む13大藩に対し、藩政当局者の中から2名を選んで海外視察を行うよう命じる。高知藩は権大参事・片岡健吉と共に視察員に選定される。

  • 1871(明治4)年5月 伴正順(29歳)、大藩視察団、およそ1年をかけて欧米各国を巡る。廃藩置県の知らせを受け、12月に帰国。

1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県

藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。

1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布

日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。​

「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。

  • 1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、南校は中学校へと改組。第一大学区第一番中学校に。外国語による普通科課程を修了する学生が出てくると、次の受け皿が必要に。

1873(明治6)年4月 学制二編追加

「専門学校」について、外国教師によって教授する高尚な学校とした。法学校・医学校・理学校・諸芸学校・鉱山学校・工業学校・農業学校・商業学校・獣医学校等に区分。「大学」と同じく、卒業者には学士の称号を与えることを定める。

「外国語学校」について、外国語学に熟達するのを目的とし、専門学校に進学するもの、あるいは通弁(通訳)を学ぼうとするものを入学させるとした。

  • 1873(明治6)年8月、開成学校、従来の「語学課程」(普通科)に加え、「専門学課程」(専門科)新設。法学・化学・工学・鉱山学・諸芸学の五科が設置される。法学・化学・工学が英語で教授されたが、鉱山学はドイツ語、諸芸学はフランス語で授業が行われ、残留していた独仏語専修の学生に対する移行措置とされた。当2学科について、学生の卒業に伴い順次廃止。

  • 東京外国語学校、英・仏・独・清(中国)・魯(ロシア)の5語科を設置(後に英語科が分離)。朝鮮語科を増設。高等教育の基礎としての外国語教育と通訳養成教育の二重の役割を果たす。

  • 1874(明治7)年2月 伴正順(32歳)、第三第四第五大学区督学事務取扱に。

  • 1874(明治7)年4月 伴正順(32歳)、新設の宮城外国語学校校長に。

  • 1875(明治8)年3月 伴正順(33歳)、司法省七等出仕に。

  • 1875(明治8)年5月 伴正順(33歳)、七等判事に。大阪裁判所に勤務。

  • 1878(明治11)年5月 伴正順(36歳)、大審院に勤務。

  • 1881(明治14)年6月 伴正順(39歳)、文部省に戻り、文部少書記官に。

  • 1882(明治15)年12月 伴正順(40歳)、文部権大書記官に。

  • 1885(明治18)年 伴正順(43歳)、非職に。実業界に入るも、失敗。

  • 1908(明治41)年6月14日 伴正順(66歳)、死去。享年66歳。

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