東京外国語大学

 

伴正順

ばんまさより

1843(天保14)年 - 1908(明治41)年6月14日

1843(天保14)年

  • 伴正順、土佐国潮江村に生まれる。

1868(明治元)年

  • 伴正順(24-25歳)、京都在勤の小目付に。大目付・本山只一郎らと共に、土佐藩に授けられた高松・松山二藩征討のための錦旗を京都から国元へ護送する命を受ける。夜中に神戸を通過しようとしたところ、神戸事件により一帯を占拠していた外国兵に拘束。錦旗の所在が一時不明となる事態に遭遇。事態収拾後、任務を本山只一郎に託し、兵庫出張中の外国事務掛・寺島宗則、岩下方平らを訪ねて外国人追及を主張、さらに京都藩邸の執政深尾鼎、後藤象二郎にも訴え出たが聞きいれられず。職を辞して高知に帰る。

1869(明治2)年2月

  • 伴正順(25-26歳)、堺事件謝罪のため上京する藩主・山内豊範に随行。

1869(明治2)年3月

  • 伴正順(25-26歳)、新政府の議事所に出仕、土佐藩選出の貢士に抜擢。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年

  • 伴正順(24-26歳)、戊辰戦争、土佐藩迅衝隊大軍監として従軍。4月15日、新兵二小隊を率いてイギリス船で大阪を出発。第一次今市戦後の27日、迅衝隊総督・板垣退助らが滞陣する今市に到着。以後、棚倉城・三春城への進軍、二本松の戦い、会津戦争に加わり、迅衝隊諸隊を率いる。二本松城落城後、土佐藩主・山内豊範の姉が米沢藩主上杉斉憲に嫁いでいる関係から、迅衝隊大軍監・谷干城、片岡健吉、との連名で米沢藩に勧降書が送られ、これが同藩の降伏につながる。会津藩降伏後、迅衝隊は東京に凱旋、片岡健吉と共に凱旋兵を率いる。10月30日、高知に戻る。

1869(明治2)年5月

  • 伴正順(25-26歳)、明治新政府が設けた公議所の公議人に。外国交際分課担当。公議所が集議院に改組、議員を務める。

1870(明治3)年12月

  • 伴正順(26-27歳)、明治新政府が高知藩を含む13大藩に対し、藩政当局者の中から2名を選んで海外視察を行うよう命じる。高知藩は権大参事・片岡健吉と共に視察員に選定される。

1871(明治4)年5月 - 1871(明治4)年12月

  • 伴正順(27-28歳)、大藩視察団、およそ1年をかけて欧米各国を巡る。廃藩置県の知らせを受け、帰国。

1872(明治5)年4月

  • 伴正順(28-29歳)、文部省七等出仕。「南校」副校長に。

1873(明治6)年11月

1873(明治6)年5月

1874(明治7)年2月

  • 伴正順(30-31歳)、第三第四第五大学区督学事務取扱に。

1874(明治7)年4月

  • 伴正順(30-31歳)、新設の「宮城外国語学校」校長に。

1875(明治8)年3月

  • 伴正順(31-32歳)、司法省七等出仕に。

1875(明治8)年5月

  • 伴正順(31-32歳)、七等判事に。大阪裁判所に勤務。

1878(明治11)年5月

  • 伴正順(34-35歳)、大審院に勤務。

1881(明治14)年6月

  • 伴正順(37-38歳)、文部省に戻り、文部少書記官に。

1882(明治15)年12月

  • 伴正順(38-39歳)、文部権大書記官に。

1885(明治18)年

  • 伴正順(41-42歳)、非職に。実業界に入るも、失敗。

1908(明治41)年6月14日

  • 伴正順(66歳)、死去。享年、66歳。