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ダイガクコトハジメ - 正木直彦

正木直彦

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年表

正木直彦

まさきなおひこ

1862(文久2)年12月17日(旧暦・10月26日) - 1940(昭和15)年3月2日

文部省官僚、第一高等学校教授、東京美術学校校長

  • 1862(文久2)年12月17日(旧暦・10月26日) 正木直彦(1歳)、和泉国堺夕栄町(現・大阪府堺市)に正木林作の三男として生まれる。

  • 1893(明治26)年 正木直彦(32歳)、奈良県尋常中学校校長に。帝国奈良博物館学芸委員となり、古美術を調査。古社寺保存委員に。

1894(明治27)年6月25日 第一次高等学校令公布

1886(明治19)年の中学校令に基づいて設立された高等中学校について、「高等学校」に改組すること主な目的とする勅令。文部大臣・井上毅が主導。改組により、第一高等学校(東京)・第二高等学校(仙台)、第三高等学校(大阪から京都に移転)・第四高等学校(金沢)、第五高等学校(熊本)が誕生(総称してナンバースクールと呼ばれる)。

専門学科(法学部・工学部・医学部など)を教授することを原則とする。しかし、高等学校による専門教育は期待された成果を得ることなく、発展せずに終わる。

但し書きで帝国大学に入学する者のための予科を設けることができるとしたが、制度としては従属的な扱いであった大学予科が大いに発展。

  • 文部大臣・井上毅の高等中学校改革は、帝国大学を大学院中心の研究機関に、分科大学を個別に設置。高等学校を専門教育機関として機能させ、これらを有機的に結びつけるという総合的な高等教育改革構想の第一段階であった。しかし、既に強固な基盤を持っていた帝国大学を改革することはできず。日清戦争後は帝国大学そのものが増設、高等学校はいよいよ大学予科としての機能を強める。構想は実現せず。

  • 1894(明治27)年9月11日、第一次高等学校令により、第一高等中学校第一高等学校に改組。卒業生の多くは東京帝国大学進学。政界・官界・財界・学界などあらゆる分野でエリートとして活躍する有為な人材を世に送り出す。その特色は、1890年代から始まった学生による自治制度と皆寄宿制度(全寮制)。

  • 1897(明治30)年、学区制廃止。第一高等学校は全国から受験可能に。

  • 1898(明治31)年 岡倉天心(36歳)、自身の長年の後援者であった文部官僚・九鬼隆一の妻・九鬼波津子との不倫が公に。東京美術学校での専権的な学校運営に対する批判も表面化。帝室博物館美術部長東京美術学校校長を罷免される。教師陣は、黒田清輝ら西洋画科を除き全教師が一斉辞職を決議。橋本雅邦・西郷孤月・菱田春草・寺崎広業・横山大観・岡部覚弥・桜岡三四郎が辞職。辞職教官と共に、日本美術院を下谷区谷中大泉寺に発足(美術学校騒動)。

  • 1898(明治31)年3月29日 高嶺秀夫(45歳)、日本の伝統美術に造詣が深く、浮世絵の収集は、3千点以上に及ぶ。浮世絵の研究を通じ、伝統美術の保護を進めたフェノロサ・岡倉天心とも親交を結んでいた。岡倉天心の美術学校騒動による罷免を受け、後任として東京美術学校校長に。教授陣の復職についても一任され、騒動を収拾。

  • 1899(明治32)年 - 1901(明治34)年 正木直彦(38-40歳)、文部省の美術など調査のため、欧米へ。

  • 1901(明治34)年 正木直彦(40歳)、岡倉天心辞職後の東京美術学校にて、校長就任。以後30年長にわたる長期間校長を務め、校正改革。画家・作家揃いの教授陣の統制は困難を極めるも、各派調停。制度・組織が安定。

  • 1906(明治39)年 正木直彦(45歳)、黒田清輝・大塚保治らと共に、政府による芸術振興を建議。これを受け、翌1907(明治40)年に第1回文部省展覧会(文展)が開催されることに。文展委員主事に。委員長は文部次官・澤柳政太郎。

  • 1907(明治40)年 松岡壽(46歳)文部省美術展覧会(文展)開催。第7回展まで審査員を務める。

  • 正木直彦、博覧会や東京府美術館建設ほか、多くの美術行政に関わる。

  • 1929(昭和4)年 正木直彦(68歳)、東京美術学校が蒐集した美術品を展示するための「陳列館」を建設​。

  • 1932(昭和7)年 正木直彦(71歳)、東京美術学校校長退任。校長後任を文部省官僚から選出することに反対の声があがる。初めて学内から選出された、西洋画科教授・和田英作が校長に。

  • 1940(昭和15)年 正木直彦(79歳)、死去。享年、77歳。

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