足利学校
小野篁
おののたかむら 802(延暦21)年 - 852(仁寿2)年12月22日/2月3日
802(延暦21)年
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小野篁、参議・小野岑守の長男に生まれる。
815(弘仁6)年
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小野篁(12-13歳)、陸奥守に任ぜられた父・岑守に従って陸奥国へ赴き弓馬をよくする。帰京後も学問に取り組まなかったことから、「漢詩に優れ侍読を務めるほどであった岑守の子であるのに、なぜ弓馬の士になってしまったのか」と嵯峨天皇に嘆かれる。これに恥じ、悔い改めて学問を志す。
822(弘仁13)年
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小野篁(19-20歳)、文章生試に及第する。
824(天長元)年
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小野篁(21-22歳)、巡察弾正に任じられる、後に正少忠・大内記・蔵人に任じられる。
830(天長7)年
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小野篁(27-28歳)、父・岑守が没する。哀悼や謹慎生活が度を過ぎて、身体容貌が酷く衰えてしまうほどであった。
832(天長9)年
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小野篁(29-30歳)、「足利学校」を創立?
833(天長10)年
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小野篁(30-31歳)、仁明天皇が即位、皇太子・恒貞親王の東宮学士に任じられ、弾正少弼を兼ねる。また、同年完成した『令義解』の編纂にも参画、その序文を執筆。
834(承和元)年
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小野篁(31-32歳)、遣唐副使に任じられる。
835(承和2)年
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小野篁(32-33歳)、従五位上に叙される。
836(承和3)年
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小野篁(33-34歳)、正五位下に叙される。
836(承和3)年 - 837(承和4)年
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小野篁(33-35歳)、渡唐のため2回にわたり出帆するも、失敗。
838(承和5)年
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小野篁(35-36歳)、3回目の航海にあたり、遣唐大使・藤原常嗣の乗船する第一船が損傷して漏水。藤原常嗣の上奏により、小野篁の乗る第二船を第一船として乗船した。これに対して、「己の利得のために他人に損害を押し付けるような道理に逆らった方法が罷り通るなら、面目なくて部下を率いることなど到底できない」と抗議。さらに自身の病気や老母の世話が必要であることを理由に、乗船を拒否。後に恨みの気持ちを含んだまま、遣唐使の事業を風刺する漢詩『西道謡』を作る。
838(承和5)年12月
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小野篁(35-36歳)、遣唐使を風刺する漢詩を読んだ嵯峨上皇が激怒、罪状を審議、官位剥奪の上で隠岐国への流罪となった。
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小野篁(35-38歳)、隠岐国への配流の道中に『謫行吟』七言十韻を詠む。文章が美しく、趣きが優美深遠で、漢詩に通じた者で吟誦しない者はいなかったといわれる。
840(承和7)年
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小野篁(37-38歳)、罪を赦されて平安京に帰る。
841(承和8)年
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小野篁(38-39歳)、文才に優れていることを理由に、特別に本位(正五位下)に復され、刑部少輔に任じられる。
842(承和9)年
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小野篁(39-40歳)、承和の変により道康親王(後に文徳天皇)が皇太子に立てられると、その東宮学士に任じられる。まもなく、式部少輔も兼ねる。
845(承和12)年
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小野篁(42-43歳)、従四位下・蔵人頭に任じられる。
846(承和13)年
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小野篁(43-44歳)、権左中弁、次いで左中弁と要職を歴任。
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当時審議中であった善愷訴訟事件において、「告発された弁官らは私曲を犯していなくても、本来は弁官の権限外の裁判を行った以上、公務ではなく私罪である」との右少弁・伴善男の主張に同意、告発された弁官らを弾劾する流れを作る。しかし、後年にこの時の判断は誤りであったとして、悔いたといわれる。
847(承和14)年
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小野篁(44-45歳)、参議に任じられ公卿に列する。後に議政官として弾正大弼・左大弁・班山城田使長官・勘解由使長官などを兼帯。
849(嘉祥2)年
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小野篁(46-47歳)、従四位上に叙される。
849(嘉祥2)年5月
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小野篁(46-47歳)、病により官職を辞す。
850(嘉祥3)年
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小野篁(47-48歳)、文徳天皇が即位、正四位下に叙される。
852(仁寿2)年
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小野篁(49-50歳)、一旦病が癒えて左大弁に復帰するも、まもなく再び病を得て参朝が困難に。文徳天皇は深く憐れみ、何度も使者を遣わせて病気の原因を調べさせ、治療の足しとするために金銭や食料を与えたといわれる。
853(仁寿2)年12月
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小野篁(51歳)、在宅のまま従三位に叙されるが、間もなく死去。享年51歳。最終官位は、参議左大弁従三位。
