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ダイガクコトハジメ - 青山学院大学

 

年表 | 動画

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学校略歴

  • 1873(明治6)年、岩倉遣欧使節団の欧米との条約改正の交渉の中で、キリスト教禁教解禁、日本でのキリスト教宣教活動が許可される、米国メソジスト監督教会が5名の宣教師を日本派遣、日本での宣教活動が教育事業と相携えて進められる

  • 1874(明治7)年、津田仙の協力を得て、ドーラ・E・スクーンメーカーらが麻布新堀町に女子小学校・海岸女学校創立

  • 1878(明治11)年4月16日津田仙の協力を得て、ジュリアス・ソーパーらが東京築地に耕教学舎創立

  • 1879(明治12)年、ロバート・S.マクレイを中心に横浜山手に美會神学校創立

  • 1881(明治14)年、耕教学舎が東京英学校に改称、翌年に美會神学校を合同

  • 1882(明治15)年秋、ジョン・F・ガウチャーの寄付により、青山南町7丁目1番地の土地を購入、東京英学校が移転、東京英和学校に改称

  • 1888(明治21)年、海岸女学校の上級生を東京英和学校の敷地の一部に移し、東京英和女学校として授業開始

  • 1894(明治27)年、東京英和学校が青山学院に改称、神学部・普通部(高等普通学部・英語師範科・予備学部)設置

  • 1895(明治28)年、東京和英女学校が青山女学院に改称、普通学部(高等科・予備科・普通科)・手芸部・幼稚園設置

  • 1899(明治32)年8月3日、文部省訓令第12号発令、キリスト教教育が政府より弾圧され、高等学校入学資格や徴兵猶予など特典を失うことになるも、建学精神を貫くことを選択、キリスト教主義学校代表者達の政府との忍耐強い折衝によって数年で回復

  • 1904(明治37)年、青山学院高等科・神学部、専門学校の認可を受ける

  • 1920(大正9)年、青山学院理事会、大学令公布を機に独自に大学設置計画を進めることを決定するも、青山学院第4代目院長・高木壬太郎が翌年に死去、さらに関東大震災の被災もあり計画は見送りに

  • 1920(大正9)年3月、青山女学院、連合キリスト教主義女子高等教育機関として創立の東京女子大学の基礎高めに協力・閉鎖

  • 1923(大正12)年、関東大震災、青山学院・青山女学院の校舎・諸施設が大破、青山学院と青山女学院が合同する契機に

  • 1927(昭和2)年4月、青山学院に青山女学院が合同、神学部・高等学部・中学部・高等女学部(専攻科・本科)設置、約3,000人の学生を擁する学園に

  • 1949(昭和24)年4月、学制改革により新生大学に、青山学院大学発足、文学部・商学部・工学部設置

  • 1950(昭和25)年、青山女学院の歴史と伝統を受け継ぎ、青山学院女子短期大学発足、文科(国文専攻・英文専攻)・家政科設置

創立者

  • ドーラ・E・スクーンメーカー

  • ジュリアス・ソーパー

  • ロバート・S.マクレイ

  • 津田仙

学校年表

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1871(明治4)年 津田仙(35歳)、明治政府が設立した北海道開拓使の嘱託に。青山の北海道開拓使農事試験場を任され、農事研究。西洋野菜の栽培を手掛けるなど、日本の近代農業の先駆者に。女子教育に関心のあった開拓次官・黒田清隆が政府が派遣する岩倉使節団に女子留学生を随行させることを企画すると、娘・津田梅子を応募。

1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団

岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。

  • 1871(明治4)年 津田梅子(8歳)岩倉遣欧使節団に随行、渡米。ワシントンへ。随行員5人の少女のうち、最年少であった。日本弁務館書記で画家のチャールズ・ランマン夫妻の家に預けられる。

  • 1871(明治4)年 - 1873(明治6)年岩倉遣欧使節団て岩倉具視らが欧米との条約改正にあたるも、日本がキリスト教の禁制と迫害を止めない限り、交渉が全く問題にされないことを知る。明治新政府にキリスト教解禁を上申。1873(明治6)年に禁制撤廃、日本でのキリスト教活動も許可されるが、信教の自由公認とは程遠いものであった。

  • 1872(明治5)年、米国メソジスト監督教会、日本宣教を決定。1873(明治6)年の日本におけるキリスト教禁制高札撤廃を受け、ロバート・S.マクレイ、アーヴィン・H.コレル、ジュ
    リアス・ソーパー、メリマン・C.ハリス、ジョン・C.デヴィソンの5人の宣教師を日本に派遣。

  • 1874(明治7)年 津田仙(38歳)津田梅子渡米先で寄宿したチャールズ・ランマン夫妻の友人、ジュリアス・ソーパーが米国メソジスト監督派教会の宣教師として来日。来日の際に津田仙を頼ったことをきっかけとして、ドーラ・E・スクーンメーカーらによる麻布新堀町の女子小学校・海岸女学校(後に東京英和女学校と合併、青山女学校に、青山学院の源流)創立に協力。

  • 日本における米国メソジスト監督教会のキリスト教宣教活動、教育事業と相携えて進められる。津田仙を始め、後にキリスト者となる日本人の協力を得て、学校設立。

  • 1875(明治8)年1月 津田仙(39歳)、米国メソジスト監督派教会にて、ジュリアス・ソーパー宣教師よりメソジスト派信者として妻・初と共に洗礼を受ける。

  • 1876(明治9)年 津田仙(40歳)、東京麻布にて、農産物の栽培・販売・輸入、農産についての書籍・雑誌の出版など手掛ける学農社設立。その一環として、東京麻布東町に学農社農学校創立。キリスト教指導も行う。学内で日曜学校開催。フルベッキやジュリアス・ソーパーらを講師に招く。

  • 1878(明治11)年4月16日 津田仙(42歳)、ジュリアス・ソーパー宣教師による東京築地の耕教学舎(青山学院の源流)創立に協力。女子小学校・海岸女学校と耕教学舎と美會神学校の3校を源流に初期の青山学院を形成、その基礎作りの中心的役割を果たす。

  • 1878(明治11)年 津田仙(42歳)、第一回全国基督教徒大親睦会開催。議長に。

  • 1879(明治12)年、ロバート・S.マクレイを中心に、横浜山手に美會神学校創立。

  • 1881(明治14)年、耕教学舎、東京英学校に改称。翌年、美會神学校を合同。

  • 1882(明治15)年秋、青山南町7丁目1番地に高等教育を行うに理想的な土地を見つける。ジョン・F・ガウチャーの寄付により、土地を購入。現在の青山キャンパスの中心に。東京英学校が移転、東京英和学校(現・青山学院大学)に改称。

  • 1883(明治16)年 津田仙(47歳)、第三回全国基督教信徒大親睦会開催。幹部に。

  • 1888(明治21)年、海岸女学校、生徒数増加のため、東京英和学校の敷地の一部を40年の年限で借りる。上級生のみを移し、東京英和女学校として授業開始。

  • 1894(明治27)年、東京英和学校が青山学院に改称。神学部・普通部(高等普通学部・英語師範科・予備学部)設置。

  • 1894(明治27)年、海岸女学校を閉鎖、東京和英女学校に合同。

  • 1895(明治28)年、東京和英女学校が青山女学院に改称。普通学部(高等科・予備科・普通科)・手芸部・幼稚園設置。

1899(明治32)年8月3日公布・8月4日施行 私立学校令

私立学校のみを対象とする最初の法令。私学の基盤を一定整備、日本の近代教育の中で存在が正当なものに位置付けられる。同時に、私学は直接・間接的に国家の教育政策からの強い統制を受けることに。

1899(明治32)年8月3日 文部省訓令第12号発令

文部省が宗教教育を禁じる法令を発令。キリスト教教育を続けると、各種学校の取り扱いとなり、上級学校への進学・徴兵猶予の特典を失うとされた。キリスト教私立学校の存立を脅かす。

  • 青山学院、文部省訓令第12号に対し、建学の精神を貫き、毅然としてキリスト教教育を続ける道を選択。失われた特典は、キリスト教主義学校代表者達の政府との忍耐強い折衝により、数年で回復される。

1903(明治36)年3月27日公布 専門学校令

中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。

予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。

  • 1904(明治37)年、青山学院高等科・神学部、専門学校の認可を受ける。

1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行 大学令

原敬内閣の高等教育拡張政策に基づき、法制度上における帝国大学と別種の「大学」を設置。専門学校の大学への昇華が認可される。大学の性格を、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養二留意スヘキモノトス」と規定。

その構成に関し、数個の学部を置くのを常例とするとし、設置する学部として法学・医学・工学・文学・理学・農学・経済学および商学の8学部をあげる。特別の必要のある場合には1個の学部を置くことができるとし、単科大学の成立も認める。

  • 1920(大正9)年、青山学院理事会、大学令公布を機に、独自に大学設置計画を進めることを決定。しかし、青山学院第4代目院長・高木壬太郎が翌年に死去、さらに関東大震災の被災もあり、計画は見送りに。

  • 1920(大正9)年3月、青山女学院、英文専門家が関東のミッション・スクールで唯一専門学校の認可を受けるなど発展を続けていたが、連合キリスト教主義女子高等教育機関として創立の東京女子大学の基礎高めに協力、閉校。

1923(大正12)年9月1日11時58分32秒 関東大震災

神奈川県および東京府(現・東京都)を中心に、隣接する茨城県・千葉県から静岡県東部までの内陸・沿岸に及ぶ広い範囲に甚大な被害をもたらす。死者・行方不明者は推定10万5,000人。明治以降の日本の地震被害として最大規模の被害に。

  • 1923(大正12)年、関東大震災、青山学院・青山女学院の校舎・諸施設が大破。青山学院と青山女学院が合同する契機となる。

  • 1927(昭和2)年4月、青山学院に青山女学院が合同、神学部・高等学部・中学部・高等女学部(専攻科・本科)設置。約3,000人の学生を擁する学園に。

 

1946(昭和21)年 - 学制改革

第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づいて日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、東京帝国大学総長・南原繁らにより推進される。

複線型教育から単線型教育「6・3・3・4制」への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを廃止。教育機会の均等が図られる。

戦前の旧制大学・旧制高等学校・師範学校・高等師範学校・大学予科・旧制専門学校が4年制の新制大学として再編される。新制国立大学について、文部省が総合的な実施計画を立案、1949(昭和24)年施行の国立学校設置法に基づき設置。

  • 1949(昭和24)年、学制改革により新生大学に、青山学院大学発足。文学部・商学部・工学部の3学部で開校。

  • 1950(昭和25)年、青山女学院の歴史と伝統を受け継ぎ、青山学院女子短期大学発足。文科(国文専攻・英文専攻)・家政科設置。

​関連する学校・組織(前史)

  • 女子小学校

  • 海岸女学校

  • 耕教学舎

  • 美會神学校

  • 東京英学校

  • 東京英和学校

  • 東京英和女学校

関連する学校・組織(現代)

  • ​青山学院

  • 東京女子大学

  • 青山学院女子短期大学

関連する教育者

  • ジュリアス・ソーパー

  • 津田仙

  • 高木壬太郎

  • ドーラ・E・スクーンメーカー

  • ロバート・S.マクレイ

参考情報

参考文献・書籍

青山学院大学年表

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