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長與專齋

出身校

  • 大村藩校・五教館

  • 適塾

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長與專齋

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  • 長與專齋|大学事始「大学の 始まり”物語。」

年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約2,000文字(読了目安:5分程度)​

​「日本近代衛生の父」

長與專齋の大学“始まり”物語

序章:蘭医の夢、長崎の光

 

 長與專齋の物語は、泰平の夢が黒船の砲声に破られようとしていた時代、1838年の肥前国大村藩にその幕を開けます。代々、藩に仕える漢方医の家に生まれた彼が、しかし見据えていたのは、古の医術の道ではありませんでした。彼の心を捉えて離さなかったのは、出島の向こうから伝わる、合理性と未知の可能性に満ちた西洋の医学、すなわち蘭学でした。

 その飽くなき知的好奇心は、1854年、長與專齋を大坂の適塾へと導きます。そこは、緒方洪庵という稀代の蘭学者の下に、全国の俊英が集う、熱気に満ちた知性の坩堝でした。そこで彼は、後に生涯の盟友となる一人の男、福澤諭吉と出会います。知性と情熱で議論を交わす日々の中で、二人の間には、共に新しい時代を創るという、言葉にならない固い絆が結ばれていったのです。その才は若くして開花し、福澤諭吉が江戸へと向かう際には、後任の塾頭に指名されるほどの信頼を得るに至りました。

 しかし、長與專齋の運命を決定づけた真の転換点は、故郷に近い長崎の地で訪れます。1861年、藩命により赴いた長崎で、彼はオランダ人軍医、ポンペ・ファン・メールデルフォールトと出会います。このオランダ人医師が語った思想は、長與專齋の世界観を根底から覆すものでした。「医者の真の使命は、病人を治療することにあるのではない。国民を健康にし、病気にかからないように社会を導くことにあるのだ」。治療医学の先にある、公衆衛生という壮大な概念。このポンペの言葉こそ、長與專齋が生涯を捧げることになる、大いなる使命の光となったのです。

 


第一章:文明の奔流、国家衛生の設計

 

 明治という新しい時代が到来し、日本が近代国家への道を歩み始めると、長與專齋は、その巨大な奔流の中心へと躍り出ます。彼の才能が国家に見出されるのに、時間はかかりませんでした。1871年、長與專齋は文部省理事官として岩倉使節団の一員に選ばれ、欧米の地を踏みます。

 そこで彼が目の当たりにしたのは、清潔な街路、整備された上下水道、そして伝染病を防ぐための精緻な法制度でした。個人の健康が、国家の強さに直結しているという厳然たる事実。この欧米の圧倒的な「文明」の力に触れた時、ポンペから受けた教えは、長與專齋の中で揺るぎない確信へと変わりました。日本の独立と発展のためには、何よりもまず「国家衛生」の確立が急務である、と。

 帰国した長與專齋の行動は、迅速かつ精力的でした。彼には、その理想を実現するための強力な理解者がいました。初代内務卿・大久保利通です。コレラという目に見えぬ脅威が国家を揺るがす中、大久保利通は、長與專齋の持つ専門的知見こそが国家を守る盾であると確信し、彼に全幅の信頼を寄せました。この政治家と専門家の固い結束が、日本の衛生行政をゼロから創造する原動力となったのです。

 その最初の、そして最大の事業が、近代医療の設計図となる『医制』の制定でした。そこには、共にドイツ医学の導入を志した盟友であり、好敵手でもあった佐賀藩出身の俊英、相良知安の存在がありました。相良知安が描いた壮大にして理想主義的な設計図に、長與專齋は、欧米視察で得た知見と、日本の国情という現実の布を当てていったのです。医師免許から医学校の基準までを定めたこの法は、一人の天才の理想を、国家として実行可能な制度へと昇華させた、長與專齋の現実主義的な手腕の証でした。

 


第二章:二つの道、一つの友情
 

 医制という器を創り上げた長與專齋の目は、次に、その器に魂を吹き込む「人」の育成へと向けられていました。彼の「人を育てる」という思想が最も純粋な形で現れたのが、一人の不遇な天才、北里柴三郎との出会いでした。世界的な発見を手にしながらも、学閥の壁に阻まれ、研究の場を失っていた北里柴三郎。その国家的な損失を、長與專齋は見過ごすことができませんでした。

 長與專齋は、官僚という立場を超え、一人の人間として行動します。彼は、若き日に適塾で日本の未来を語り合った、生涯ただ一人の盟友の元を訪れました。在野の思想家として文明の道を説き続けてきた、福澤諭吉です。

 官の道を進んだ長與專齋と、民の道を選んだ福澤諭吉。歩む道は違えど、国家を憂い、真の学問を尊ぶ心は一つでした。数十年の時を経て、二人の友情は、不遇の天才を救うという一点で再び固く結びつきます。長與專齋の熱意に福澤諭吉は即座に呼応し、実業家の森村市左衛門をも巻き込み、私財を投じて「伝染病研究所」は設立されたのです。それは、かつて適塾緒方洪庵から受けた「人のためにあれ」という無言の教えを、二人がそれぞれの人生を懸けて果たした瞬間でもありました。

 1902年、長與專齋はその生涯に幕を閉じます。彼の人生は、国家という巨大な機構の中で、制度を創り、改革を断行する孤高の道でした。しかしその根底には、常に、適塾で育まれた人間への信頼と、福澤諭吉という変わらぬ友との精神的な繋がりがありました。官の頂点を極めた男と、民の巨星として輝いた男。二つの異なる道が交差して生まれた伝染病研究所は、彼らの友情が日本の未来に遺した、最も確かな光の一つとなったのです。

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