ダイガクコトハジメ - 長尾精一
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長尾精一
ながおせいいち
1851(嘉永4)年 - 1902(明治35)年7月15日
公立千葉病院医学教場教頭、県立千葉医学校校長、第一高等学校医学部医学部長・医学主事、第一高等学校医学部医学部主事、千葉医学専門学校初代校長
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1851(嘉永4)年 長尾精一(1歳)、讃岐に生まれる。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
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1874(明治7)年7月、千葉町・寒川村・登戸村(現・千葉市)有志および三井組の醸金により、共立病院設立。
1875(明治8)年 - 1916(大正5)年 医術開業試験
1874(明治7)年の医制公布により、国家試験による医師の開業許可制が採用される。新規開業の医師に西洋医学の知識が必須となる。医師免許は医術開業試験合格者のほか、医学教育機関卒業者に対して無試験で与えられる。
医術開業試験はその合格のために「前期3年後期7年」と言われるほどの難関であり、受験のために多くの医学受験校が生まれる。これら予備校より、後に私立医学専門学校・私立医科大学が誕生する。
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1876(明治9)年10月、共立病院、公立千葉病院に改称。公立千葉病院医学教場を付設。
1877(明治10)年4月12日 東京大学創立
東京開成学校本科と東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部が錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。
法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。
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1877(明治10)年、東京英語学校と東京開成学校予科が統合、東京大学予備門(後に第一高等中学校・第一高等学校)設立。「専門学科ニ昇進スヘキ生徒ニ階梯ヲアタヘ予備学ヲ教授スルノ旨趣」とされ、東京大学法・理・文三学部入学のための基礎教育・語学教育を施す教育機関に。当初、東京大学医学部は別に予科を設ける。
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1880(明治13)年9月 長尾精一(30歳)、東京大学卒業。公立千葉病院長兼公立千葉病院医学教場教頭に。
1881(明治14)年4月12日 東京大学機構改革、総合大学誕生
東京大学法学部・理学部・文学部三学部と東京大学医学部を名実共に統合、4学部を有する総合大学が誕生。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった東京大学法・理・文三学部は、1885(明治17)年にかけて東京大学医学部に隣接する本郷新校舎に移転。
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1882(明治15)年7月、公立千葉病院を改組。県立千葉医学校および県立千葉医学校付属病院設置。
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1882(明治15)年7月 長尾精一(32歳)、県立千葉医学校校長に。
1886(明治19)年3月2日-4月10日公布 学校令
教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。
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1886(明治19)年、学校令により、「高等中学校」の制度が成立。東京大学予備門は、第一高等中学校に。高等中学校は文部大臣の管理に属し、全国を五区に分け、各区ごとに1校設置することが定められる。第三高等中学校(京都)・山口高等中学校・第二高等中学校(仙台)・第四高等中学校(金沢)・第五高等中学校(熊本)・鹿児島高等中学造士館が設立され、全国に7校の高等中学校が誕生。第一高等中学校だけでなく、全国の高等中学校の卒業生が帝国大学へ進学する制度に。
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1887(明治20)年 三輪徳寛(29歳)、帝国大学医学部卒業。帝国大学医学部大学院進学。ユリウス・スクリバ教授の下、外科専攻。唯一の給費生に選ばれ、月給5円の支給を受ける。
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1887(明治20)年9月、高等中学校令施行に伴い、県立千葉医学校は官立に移管。第一高等中学校医学部に。第一高等中学校への医学部設置にあたり、各地で誘致運動が繰り広げられる。中でも有力視されていたのは名古屋であったが、県立千葉医学校・長尾精一校長、千葉県知事・船越衛の熱心な誘致活動により、千葉への設置が決定。
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1887(明治20)年12月 長尾精一(37歳)、第一高等中学校医学部医学部長・医学主事に。
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1888(明治21)年12月 三輪徳寛(30歳)、帝国大学医学部大学院卒業。ユリウス・スクリバ教授の助手に。
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1889(明治22)年5月 三輪徳寛(31歳)、第一高等中学校医学部教諭に。外科学を担当。あわせて、付属の県立千葉病院において外科担当。
1894(明治27)年6月25日 第一次高等学校令公布
1886(明治19)年の中学校令に基づいて設立された高等中学校について、「高等学校」に改組すること主な目的とする勅令。文部大臣・井上毅が主導。改組により、第一高等学校(東京)・第二高等学校(仙台)・第三高等学校(大阪から京都に移転)・第四高等学校(金沢)・第五高等学校(熊本)が誕生(総称してナンバースクールと呼ばれる)。
専門学科(法学部・工学部・医学部など)を教授することを原則とする。しかし、高等学校による専門教育は期待された成果を得ることなく、発展せずに終わる。
但し書きで帝国大学に入学する者のための予科を設けることができるとしたが、制度としては従属的な扱いであった大学予科が大いに発展。
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文部大臣・井上毅の高等中学校改革は、帝国大学を大学院中心の研究機関に、分科大学を個別に設置。高等学校を専門教育機関として機能させ、これらを有機的に結びつけるという総合的な高等教育改革構想の第一段階であった。しかし、既に強固な基盤を持っていた帝国大学を改革することはできず。日清戦争後は帝国大学そのものが増設、高等学校はいよいよ大学予科としての機能を強める。構想は実現せず。
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1894(明治27)年9月11日、第一次高等学校令により、第一高等中学校を第一高等学校に改組。卒業生の多くは東京帝国大学進学。政界・官界・財界・学界などあらゆる分野でエリートとして活躍する有為な人材を世に送り出す。その特色は、1890年代から始まった学生による自治制度と皆寄宿制度(全寮制)。
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1894(明治27)年、第一次高等学校令施行に伴い、第一高等中学校医学部は第一高等学校医学部に。
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1894(明治27)年 長尾精一(44歳)、第一高等学校医学部医学部主事に。
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1897(明治30)年 - 1899(明治32) 三輪徳寛(39-41歳)、官費留学生が帝国大学教授だけでなく、高等中学校医学部教授にも認められることに。第一回官費留学生として、木村孝蔵・田代正と共にドイツ留学。留学先にて、呉秀三・佐藤達次郎・岡村達彦・高安道成らと行動を共にすることも。
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1901(明治34)年4月1日、第一高等学校医学部、文部省直轄諸学校官制改正により、千葉医学専門学校として独立。
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1901(明治34)年4月 長尾精一(51歳)、千葉医学専門学校初代校長に。
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1902(明治35)年7月15日 長尾精一(52歳)、死去。享年52歳。
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