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出身校
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佐倉藩校・成徳書院
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参考情報
参考文献・書籍
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年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約2,000文字(読了目安:5分程度)
「“大平民”と呼ばれた男」
津田仙の大学”始まり”物語
序章:幕臣、世界と出会う
津田仙の物語は、日本が鎖国という永い眠りから覚めようとする時代の胎動の中から始まります。1837年、下総国佐倉藩に生まれた彼は、藩主・堀田正睦が推し進める洋学奨励の気風の中で多感な時期を過ごしました。それは、異国の知識が未来を切り拓くという期待に満ちた時代でした。藩校・成徳書院で蘭学や英語を学んだ津田仙の胸には、新しい世界への尽きせぬ好奇心が燃え盛っていたのです。
その才能はすぐに頭角を現し、若くして江戸幕府の外国奉行通訳という重責を担います。彼の人生が最初の大きな転換点を迎えたのは、1867年のことでした。軍艦受取委員会の随員として、二度目となるアメリカの地を踏んだのです。
この航海には、後に日本の近代化を牽引する福澤諭吉も同乗していました。津田仙は、アメリカ社会の豊かさや活力だけでなく、その根底に流れるキリスト教の文化に強い感銘を受けます。それは、立身出世を目指す一人の幕臣エリートが、個人の生き方を超えた社会全体の精神的支柱というものに、初めて触れた瞬間でした。この経験は一つの問いを彼の心に深く刻み付けました。日本の未来のために、真に必要なものは何か、と。
第一章:敗戦と信仰の黎明
アメリカで見た輝かしい未来像とは裏腹に、帰国した津田仙を待っていたのは、幕府の崩壊と戊辰戦争という動乱の渦でした。彼は幕府軍として戦い、そして敗れます。昨日までのエリート官僚は、一夜にして職を失い、旧体制の人間として苦難の道を歩むことになりました。エリートとしての誇りは打ち砕かれ、新たな時代の中でいかに生きるべきか、暗中模索の日々が続きます。その苦境にあって、勝海舟らの援助は、彼が完全に希望を失うことを留めました。
人生の路頭に迷う中で、津田仙は運命的な出会いを果たします。1874年、アメリカから来日した宣教師ジュリアス・ソーパーです。ソーパーが語るキリスト教の博愛の精神と、個人の魂の救済という教えは、敗戦の絶望の中にいた彼の心を強く捉えました。それは、国家や組織への忠誠とは異なる、人間そのものに価値を置く新しい光でした。
そして1875年、津田仙は妻・初子と共に洗礼を受けます。これは彼の人生における最大の転機に他なりません。彼の活動の目的が、武士としての立身出世から、神と社会への奉仕へと完全にその方向性を転換させたのです。
第二章:学農社と近代日本の種蒔き
信仰という揺るぎない羅針盤を得た津田仙の後半生は、驚くべきエネルギーに満ち溢れていました。彼は日本の近代化のために、自らが貢献できるあらゆる分野にその情熱を注ぎ込みます。
1876年に設立した「学農社」は、まさに彼の理想を実現するための城でした。ここで彼は西洋農業技術の導入と普及に努め、農学校を開いては後進を育て、雑誌を発行しては知識を広めました。日本で最初の通信販売と言われる事業を始めるなど、その活動は卓越した事業家としての一面をも見せます。しかし、彼の目的は単なる技術や富の追求ではありませんでした。学農社では日曜学校を開き、キリスト教の教えを伝えることも重要な活動の一部でした。彼にとって、日本の近代化とは、産業の発展と精神性の向上が一体となったものでなければならなかったのです。
その活動は自らの事業に留まりません。彼はジュリアス・ソーパーら宣教師の教育活動に深く共鳴し、後の青山学院の源流となる学校の設立に中心的な役割を果たします。また、中村正直らと共に盲人教育のための「楽善会」を発足させるなど、社会の弱い立場にある人々へと常にその目を向けていました。
第三章:父の夢、娘の道、そして"大平民"へ
津田仙の挑戦は、時に新たな葛藤を生み出しました。自らの理想を託し、いち早く海外留学へと送り出した最愛の娘、津田梅子。しかし、11年ぶりに帰国した彼女は、アメリカで個人としての自立心を育んだ、彼の想像を超える新しい女性となっていました。キリスト教精神に基づく「良妻賢母」を理想とする父と、学問の府で女性の権利と可能性を信じる娘との間には、深刻な思想的対立が生まれます。これは、近代化の過程で日本の多くの家庭が経験したであろう、世代間の価値観の衝突そのものでした。
晩年、彼の目はさらに広く社会へと注がれます。足尾鉱毒事件で苦しむ農民たちを救うため、田中正造を助け救済運動に奔走しました。それは、彼のキリスト教信仰が、近代化の歪みによって苦しむ人々への具体的な行動として結実した姿でした。
やがて、長年の確執を経た津田仙は、自らの夢とは違う道を歩みながらも、日本の女子教育のために独自の学校を創ろうと奮闘する娘・津田梅子の理想と自主性を認めます。1900年、津田梅子が「女子英学塾」を創立した時、協力者名簿には父・津田仙の名が確かにありました。旧時代の価値観を持つ父親が、新しい時代の娘の生き方を最終的に受け入れた瞬間です。
1908年、津田仙はその72年の生涯を閉じました。彼の死後、内村鑑三をはじめとする多くの人々が、その生涯を「大平民」と称え、その功績を讃えました。武士の身分を失い、一人の平民として、しかし誰よりも大きく日本の未来のために種を蒔き続けた男。彼が遺した農業、教育、社会事業、そして信仰の精神は、彼が関わった多くの学校や人々の心に受け継がれ、近代日本の礎の一部となったのです。