ダイガクコトハジメ - 楠田英世
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楠田英世
くすだひでよ
1831(文政13)年1月2日(旧暦・11月19日) - 1906(明治39)年10月22日
第一次新潟県知事、大学大丞、司法官僚、司法省明法寮権頭、元老院議官
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1831(天保2)年1月2日(旧暦・11月19日) 楠田英世(1歳)、肥前佐賀藩に生まれる。
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鍋島直正(鍋島閑叟)、幕末激動の中、政界において佐幕・尊王・公武合体派いずれとも均等に距離を置いたため、「肥前の妖怪」と警戒される。参預会議や小御所会議などで発言力を持てず、伏見警護のための京都守護職を求めるも実らず。政治力・軍事力共に発揮できなかったことを背景に、佐賀藩内における犠牲者は最小限に。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
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1868(慶応4/明治元)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(54歳)、鳥羽・伏見の戦いの際、薩摩藩より佐賀征伐の声が挙がる。新政府軍の勝利以降、上京した佐賀藩も新政府軍に参加。上野彰義隊との戦いから五稜郭の戦いまで、アームストロング砲ほか最新式兵器を装備した軍の活躍は大きく、討幕運動には不熱心であったが薩長土肥の一角を担うことに。
1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 戊辰戦争
王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。
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1868(慶応4/明治元)年 江藤新平(35歳)、新政府軍の東征大総督府軍監・徴士に。土佐藩士・小笠原唯八と共に、江戸偵察。江戸開城が決定、城内の文書類を接収。鎮将府・江戸府の各判事として、民政・会計・財政・都市問題など担当。江戸の人心収拾と復興に尽力。
1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し
官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。
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1868(慶応4/明治元)年5月15日 江藤新平(35歳)、彰義隊の問題にて、大村益次郎らと共に討伐を主張。軍監として上野戦争で戦い、彰義隊勢を寛永寺周辺に追い詰める。佐賀藩のアームストロング砲を遠方射撃する戦術などにより彰義隊は瓦解。
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1868(慶応4/明治元)年 楠田英世(38歳)、会津戦争、仁和寺宮嘉彰親王の副参謀に。
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1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 鶴田皓(33-34歳)、会津戦争、佐賀藩のアームストロング砲隊分隊長として彰義隊と戦う。
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1868(慶応4/明治元)年4月3日(旧暦・2月22日) 楠田英世(38歳)、新潟県知事に。
1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想
明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校を大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校を大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。
1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立
明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校・医学校を分局とする大学校(東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。
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1870(明治3)年1月18日(旧暦・12月17日)、大学校を大学と改称。昌平学校を大学本校に。大学本校の南に所在していた開成学校は大学南校(だいがくなんこう)、東に所在していた医学校は大学東校(だいがくとうこう)と改称。
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楠田英世、大史に。
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楠田英世、司法少判事に。
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楠田英世、制度御用兼勤に。
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楠田英世、司法中判事に。
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1870(明治3)年 江藤新平(37歳)、制度取調専務として国家機構の整備に従事。大納言・岩倉具視に対し、30項目の答申書を提出。フランス・プロシア・ロシアをモデルとした三権分立と議会制、君主国家と中央集権体制の促進、四民平等を提示。憲法の制定作業に着手。
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江藤新平、国法会議や民法会議を主催、箕作麟祥・加藤弘之らと共に『民法典編纂』に取り組む。フランスの法制度を高く評価。「フランス民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい」・「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」。普仏戦争でフランスが大敗するも、フランスへの評価が日本で低くなるのを戒める。
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1871(明治4)年6月28日(旧暦・5月11日) 楠田英世(41歳)、司法省明法寮権頭に。後に、司法大丞、司法大検事を兼任。江藤新平が主催する民法会議に出席。箕作麟祥・加藤弘之らと共に民法編纂に従事。
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1871(明治4)年7月、司法省設置。刑部省と弾正台を廃止。初代司法卿に、江藤新平。
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1871(明治4)年9月27日、司法省明法寮設置。法律専門家の育成が急務に。
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1872(明治5)年4月25日 江藤新平(39歳)、新設された司法省の初代司法卿に就任。四民平等・警察制度整備など近代化政策を推進。特に司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績を残す。
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楠田英世、司法省三等出仕に。
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楠田英世、兼明法頭に。
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楠田英世、法制課長に。
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楠田英世、左院御用掛に。
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1876(明治9)年4月8日 楠田英世(46歳)、元老院議官に。
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楠田英世、訴訟法取調委員に。
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楠田英世、民法編纂委員に。
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1881(明治14)年7月27日 楠田英世(51歳)、登記法取調掛委員長に。
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1906(明治39)年10月22日 楠田英世(76歳)、死去。享年76歳。
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