ダイガクコトハジメ - 林羅山(道春)
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英甫永雄(雄長老)
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古澗慈稽
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藤原惺窩
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松永貞徳
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林羅山(道春)
はやしらざん(どうしゅん)
1583(天正11)年 - 1657(明暦3)年3月7日(旧暦・1月23日)
林家塾・学問所(後に昌平坂学問所、東京大学の源流)創立、儒学者、「林家の祖」
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1583(天正11)年 林羅山(1歳)、京都四条新町に生まれる。父は加賀国郷士の末裔で浪人。ほどなく伯父のもとに養子に出される。
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1595(文禄4)年 林羅山(13歳)、幼少の頃から秀才と謳われる。京都建仁寺で仏教を学ぶが、僧籍に入ることを拒否。
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林羅山、建仁寺大統庵の古澗慈稽、建仁寺十如院の英甫永雄(雄長老)に師事。雄長老のもと、文学に長じた松永貞徳から刺激を受ける。
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1597(慶長2)年 林羅山(15歳)、家に戻り、専ら儒書に親しむ。南宋の朱熹(朱子)の章句・集注(四書の注釈)を研究する。独学を進め、朱子学に熱中。
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1604(慶長9)年 林羅山(22歳)、藤原惺窩と出会い、精神的・学問的に大きく影響を受ける。藤原惺窩を師とし、儒学ことに朱子学を学ぶ。傑出した英才が門下に加わったことを喜んだ藤原惺窩より、儒服を贈られる。
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林羅山、それまでに読んだ書物を整理、目録を作ると440余部に。本を読むのに「五行倶に下る」といい、一目で五行ずつ読んでいき、すべて覚える。
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1605(慶長10)年 林羅山(23歳)、英明さに驚いた藤原惺窩より推挙され、京都二条城にて徳川家康に謁見。以後、徳川家康に仕える。万象を貫く道徳的属性を考える立場に立ち、幕藩体制下の身分秩序およびそこにおける実践道徳を形而上学的に基礎付けていく。
朱子学は、南宋の朱熹によって構築された儒教の新しい学問体系(新儒教)である。万物は宇宙の理想的なあり方を示す善や真の概念「理」と現実世界の諸現象「気」から成るとし(理気二元論)、「理」である理性・道徳により、「気」としての現実を支配することを理想とした。江戸幕府が朱子学を正学(官学)と定めた背景には、政権の安定と支配層の再生産について、「理」を四民の身分秩序にあると定義(上下定分の理)し、身分制度を知的・理念的側面から支えたい思惑があった。武士が学ぶべき学問として、思想体系・教育環境の整備を図る。一方で現実の「気」に重きを置き、実践を重視(知行合一)した陽明学は反体制的な行動を誘引する恐れがある学問とされ、日本だけでなく東アジアの多くの体制下で異端・異教として扱われた。
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1606(慶長11)年 林羅山(24歳)、イエズス会の日本人修道士、イルマン・ハビアンと地球論争。地動説と地球球体説を断固として受け入れず、地球方形説と天動説を主張。論争はハビアンを論破する形で終わる。
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1607(慶長12)年 林羅山(25歳)、徳川家康の命により僧形に。道春と称する。江戸に赴き、2代将軍・徳川秀忠に講書を行う。長崎で『本草綱目』を入手、駿府に滞在の徳川家康に献上する。
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1614(慶長19)年 林羅山(32歳)、大阪の役、方広寺の梵鐘に刻された「国家安康」「君臣豊楽」の文言(方広寺鐘銘事件)で、徳川家康に追従。徳川家を呪詛するものと問題視する意見を献じる。さらに「右僕射源朝臣家康」を「家康を射る」ものであると見解を表明。
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1624(元和10/寛永元)年 林羅山(42歳)、3代将軍・徳川家光の侍講に。さらに深く徳川幕府政治に関与。その活躍は、『寛永諸家系図伝』『本朝通鑑』など伝記・歴史の編纂・校訂、古書・古記録の採集、武家諸法度・諸士法度・御定書百箇条などの撰定、外交文書の起草、朝鮮通信使の応接など多岐にわたる。
1630(寛永7)年 - 1632(寛永9)年 上野忍岡に林家の書院・学寮設立・聖廟(先聖殿)建立
1630(寛永7)年、3代将軍・徳川家光が林家に上野忍岡の五千余坪の土地と二百両を与え、書院と学寮を設立。昌平坂学問所の起源に。1632(寛永9)年、徳川義直が同地内に聖廟(先聖殿、後に忍岡聖堂)建立。
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1632(寛永9)年 林羅山(50歳)、3代将軍・徳川家光より江戸上野忍岡に土地を与えられ、私塾弘文館(学問所)・文庫を設立。私塾より多くの門人を輩出、後の昌平坂学問所(東京大学の源流)の起源となる。尾張藩初代藩主・徳川義直がこれを助け、孔子の聖像、顔子・曾子・子思・孟子の四賢像、祭器を寄付。先聖堂の扁額を書いて与える。祭祀の維持運営が代々の林家当主に継承される。
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1635(寛永12)年 林羅山(53歳)、武家諸法度を起草。
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1636(寛永13)年 林羅山(54歳)、伊勢神宮参拝典礼にあたる。
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林羅山、尾張藩初代藩主・徳川義直の私邸の孔子を祀る略式の釈奠を執り行うことについて、晩年に幕府より910石を給せられる。
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1657(明暦3)年3月7日(旧暦・1月23日) 林羅山(75歳)、明暦の大火により邸宅と書庫を焼失。その4日後、死去。享年75歳。
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