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ダイガクコトハジメ - 志賀潔 - 大学の始まり物語

志賀潔

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  • 志賀潔|大学事始「大学の 始まり”物語。」

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参考情報

参考文献・書籍

年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約2,000文字(読了目安:5分程度)​

​「赤痢菌の発見者」

志賀潔の大学“始まり”物語

序章:医学への宿命と信仰の萌芽

 

 志賀潔の物語は、明治維新という国家的大変革の直後、1871年に仙台藩士の子として生を受けたことから始まります。武士の気風が色濃く残る時代に生まれた彼が、その生涯を剣ではなくメスに、そして顕微鏡に捧げることになる道筋は、早くから定められていました。8歳の時、母方の実家であり、代々仙台藩の藩医を務めた志賀家の養子となったことは、彼の人生の航路を医学の道へと明確に向けさせる、最初の出来事でした。

 しかし、彼の人間性の根幹を形成する、より決定的な出会いは、東京の第一高等中学校で訪れます。教師であった内村鑑三。その厳格でありながら熱情に満ちた教えは、多感な志賀潔の魂を深く揺さぶりました。国家や学問といった公的な使命と、個人の内面的な信仰をいかにして結びつけるか。この問いに対し、内村鑑三が示したキリスト教の教えは、志賀潔にとって生涯の羅針盤となりました。それは、単なる学問的知識の探求に留まらない、博愛の精神に基づき、人々の苦しみに寄り添うという、彼の医学者としての姿勢の精神的な源流となったのです。

 


第一章:師・北里柴三郎との出会いと「実学」の洗礼
 

 1892年、志賀潔は帝国大学医科大学の門を叩きます。当時の最高学府であり、卒業すればエリートとしての道が約束された場所でした。しかし、まさに同じ年、彼の運命を決定づける一人の巨人が、ドイツから日本へ帰国していました。その男の名は、北里柴三郎。欧州で破傷風菌の純粋培養という歴史的偉業を成し遂げながらも、その鋭すぎる舌鋒ゆえに帝国大学の学閥と対立し、活躍の場を失っていた在野の天才でした。

 1896年、帝国大学医科大学を卒業した志賀潔は、約束された道を捨て、福澤諭吉らの支援で設立されたばかりの私立伝染病研究所の扉を叩きます。それは、内村鑑三の教えに通じる、権威に与しない真理の探究への渇望であり、何より北里柴三郎という人物が放つ強烈な磁力に引き寄せられての決断でした。そこで彼は、首席で卒業した盟友・北島多一らと共に、北里柴三郎が掲げる「学問は、実社会の役に立ってこそ価値がある」という「実学」の精神を、文字通り全身で浴びることになります。

そ の最初の試練が、当時日本全土を恐怖に陥れていた赤痢との闘いでした。原因不明の病魔に対し、志賀潔は北里柴三郎の指導の下、昼夜を分かたず研究に没頭します。そして1897年、彼はついにその病原菌を特定するという金字塔を打ち立てました。これは、一人の若き研究者の輝かしい功績であると同時に、北里柴三郎が目指した「国民を救うための医学」という理念が、弟子によって見事に結実した瞬間でした。後にこの菌は、彼の名を冠して「Shigella」と国際的に命名されることになります。それは、師から弟子へと受け継がれた実学の魂が、世界に認められた証に他なりませんでした。

 


第二章:化学療法の光と学問の独立
 

 赤痢菌の発見という偉業は、志賀潔にとっての終着点ではありませんでした。彼の探究心は、病の「原因」を突き止めることから、それを「治療」する方策の発見へと向かいます。その新たな扉を開いたのが、1901年からのドイツ留学であり、化学療法の父、パウル・エールリヒとの出会いでした。

 フランクフルトの王立実験治療研究所で、志賀潔はエールリヒが提唱する「魔法の弾丸」という思想に深く感銘を受けます。それは、病原体のみを選択的に攻撃する特異的な化学物質によって病を根治するという、革命的な概念でした。この経験は、志賀潔の視野を、細菌を発見し分類する「細菌学」から、薬によって病を制圧する「化学療法」へと飛躍的に拡大させました。彼が目指す頂は、ここからさらに高く、そして明確になったのです。

 世界最先端の知識を携えて帰国した彼を待っていたのは、日本の医学界の古き因習との対決でした。1914年、政府が、彼らが心血を注いできた国立伝染病研究所を、一方的に東京帝国大学の付属機関とすることを決定します。これは、学問の独立性を脅かす暴挙であり、学閥による在野の圧殺に他なりませんでした。師である北里柴三郎が怒りと共に辞表を叩きつけると、志賀潔は一片の迷いもなくそれに続きました。盟友・北島多一をはじめ、研究所の全職員が一斉に職を辞したこの「伝研騒動」は、彼らが安定した官職よりも、師への忠誠と学問の自由という崇高な価値を選んだ、研究者としての矜持の表明でした。

 


第三章:大陸に渡った教育者、その継承と理想
 

 北里柴三郎が新たに私財を投じて設立した北里研究所で研究を続ける一方、志賀潔の人生は、新たなステージへと向かいます。師・北里柴三郎が、長年の恩人である福澤諭吉への報恩として慶應義塾大学医学部の創設に乗り出した際、志賀潔はその根幹を担う教授として、日本の私学医学教育の黎明期を支えました。それは、師から受け継いだ「人を育てる」という実学の精神を、次世代へと繋ぐ仕事でした。

 そして1920年、志賀潔は、その教育者としての使命を、さらに大きな舞台で果たそうと決意します。日本の医学界における栄達を約束された地位にありながら、彼は朝鮮総督府からの招聘を受諾し、海を渡ったのです。京城医学専門学校の校長として、そして後に新設された京城帝国大学の医学部長、さらには総長として、彼はその後半生を朝鮮半島の近代医学教育の基盤整備に捧げました。

 それは、日本の統治政策の一環という複雑な文脈の中にありながらも、彼にとっては、青年時代に内村鑑三から受けた博愛の精神を実践する場であり、北里柴三郎から受け継いだ実学の魂を、新たな土地で継承しようとする壮大な挑戦でした。彼が築こうとしたのは、単なる知識の移植ではなく、自立した研究者を育てるという、教育の「源流」そのものでした。

 1931年、恩師・北里柴三郎の訃報に接し、京城帝国大学総長を辞して帰国。その後は北里研究所の顧問として、静かに後進の指導にあたりました。彼の生涯は、病魔の正体を突き止める科学者としての探究心と、人々を苦しみから救いたいと願う博愛の精神、そして、師から受け継いだ教育の魂を次代へと繋ごうとした教育者としての情熱によって貫かれていました。志賀潔が遺した精神的な礎は、日本の医学史、そして教育史の中に、今なお不滅の光を放ち続けているのです。

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