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尺振八

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尺振八

せきしんぱち

1839(天保10)年9月16日(旧暦・8月9日) - 1886(明治19)年11月28日

共立学舎創立、大蔵省翻訳局長

「尺振八」に関する書籍 [外部]

  • 1839(天保10)年9月16日(旧暦・8月9日) 尺振八(1歳)、江戸佐久間町(現・東京都千代田区神田佐久間町)に、下総高岡藩医・鈴木伯寿の子として生まれる。

  • 1860(安政7/万延元)年 尺振八(22歳)、中浜万次郎(ジョン万次郎)・西吉十郎に英語を学ぶ。

  • 1860(安政7/万延元)年 矢野二郎(16歳)、幕府訳官・森山多吉郎、西吉十郎に英語を学ぶ。尺振八・益田進(益田孝)と終生にわたる交友を結ぶ。

  • 1861(万延2/文久元)年 尺振八(23歳)、幕府出仕。西吉十郎の推薦により、通弁御用出役に。益田孝・矢野二郎と共に善福寺の米公使館詰めに。

  • 1861(万延2/文久元)年 矢野二郎(17歳)、水戸藩士による東禅寺事件が起こる。尺振八・益田進(益田孝)と共に、幕府の外国方訳官に抜擢され、関係各国との事後交渉に。

1862(文久元)年 - 1863(文久2)年 文久遣欧使節団

1858(安政5)年に江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルと交わした修好通商条約について、両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉を目的に、ヨーロッパに最初の使節団を派遣。

正使、下野守・竹内保徳。副使、石見守・松平康直、目付、能登守・京極高朗。この他、組頭・柴田剛中、福地源一郎・福澤諭吉・松木弘安(寺島宗則)・箕作秋坪尺振八らが一行に加わり、総勢36名に。後日、通訳の森山栄之助と渕辺徳蔵が加わり38名に。

  • 1862(文久元)年 - 1863(文久2)年 福澤諭吉(28-29歳)、文久遣欧使節に幕府翻訳方として同行。同行者に、寺島宗則・福地源一郎・箕作秋坪尺振八がおり、行動を共に。途上、立ち寄った香港で植民地主義・帝国主義を目の当たりに。イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受ける。シンガポールを経てインド洋・紅海を渡り、スエズ地峡を汽車で越え、地中海を渡りマルセイユに上陸。リヨン、パリ、ロンドン、ロッテルダム、ハーグ、アムステルダム、ベルリン、ペテルブルク、リスボンなどを訪問。ヨーロッパでも土地取引など文化的差異に驚く。書物では分からない、病院・銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度・議会制度など、未知の事柄・日常について調べる。

  • 1862(文久元)年 - 1863(文久2)年 尺振八(24-25歳)、文久遣欧使節団、福澤諭吉らと共に翻訳方として同行。

  • 1863(文久3)年 尺振八(25歳)、益田孝・矢野二郎と共に横浜運上所勤務。池田筑後守を団長とする横浜鎖港談判使節団(第2回遣欧使節)に同行、渡仏。矢野二郎・益田孝と行動を共にする。

  • 1863(文久3)年 矢野二郎(19歳)、尺振八・益田孝と共に横浜在勤を願い出る。当時の税関たる運上所に配属、語学の腕を磨く。池田筑後守を団長とする第2回遣欧使節の訳官として、尺振八・益田孝と共に随行。翌年、帰国。

 

  • 1867(慶応3)年2月27日(旧暦・1月23日) 尺振八(29歳)、江戸幕府の軍艦受取委員会随員(通訳)として、使節主席・小野友五郎と共にコロラド号で再び渡米。福澤諭吉津田仙が同乗。ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れる。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1868(慶応4/明治元)年 尺振八(30歳)、神戸のアメリカ公使館で通詞を務める。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し

官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。

  • 1868(慶応4/明治元)年 尺振八(30歳)、江戸開城後、横浜に移る。英語塾を拓く。アメリカ公使館の通詞を務める。

1868(慶応4)年4月6日(旧暦・3月14日) 『五箇条の御誓文

政治政府の基本方針が示される。「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」

1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都

江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。

  • 1870(明治3)年 吉田賢輔(33歳)尺振八・須藤時一郎らと共に、英語塾・共立学舎創立。

  • 1870(明治3)年 尺振八(32歳)、英語発音の参考書『傍訓英語韵礎』刊行。須藤時一郎と共著。

  • 1872(明治5)年 尺振八(34歳)、明治新政府大蔵省出仕。翻訳局長に。

  • 1875(明治8)年 尺振八(37歳)、大蔵省退官。英語教育に専念。

  • 1880(明治13)年 尺振八(42歳)、共立学舎は自由民権運動闘士の溜まり場に。閉鎖。

  • 1880(明治13)年 尺振八(42歳)、自由教育を説くハーバート・スペンサーの『教育論』訳出、『斯氏教育論』刊行。

  • 1886(明治19)年11月28日 尺振八(48歳)、死去。享年48歳。

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