ダイガクコトハジメ - 安田禄造
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安田禄造
やすだろくぞう
1874(明治7)年 - 1942(昭和17)年12月16日
東京高等工業学校(現・東京工業大学)工業図案科教授、東京高等工藝学校(現・千葉大学工学部)創立委員・第4代校長
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1874(明治7)年 安田禄造(1歳)、東京に生まれる。
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1899(明治32)年9月、東京工業学校工業図案科、「工業製品は性能は基より、使いやすく美しくなければならない」という考えに基づき設置。
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安田禄造、東京高等工業学校工業図案科卒業。卒業と同時に、東京高等工業学校工業図案科助教授に。
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- 1914(大正3)年 安田禄造(- 41歳)、東京高等工業学校工業図案科科長・松岡壽の働きかけにより、教員の海外派遣が実現。最初の派遣者に。オーストリア留学。ウィーン工芸学校にて、建築家・デザイナーとしてモダンデザインの道を切り拓いた先駆者の一人・ホフマンに師事。ホフマンの現実的で実用的な様式を追及する姿勢が、東京高等工業学校工業図案科が目指す方向と合致。その後、西欧各地を巡る。
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1914(大正3)年、東京高等工業学校工業図案科、東京美術学校図案科に併合、廃止に。在学生が東京美術学校に転入。しかし、東京美術学校では機能美実現に不可欠な工学的要素がうまく教えられず。また日本美術に重きが置かれ、合理的な西洋美術が軽んじられる当時の風潮も重なり、工業図案科が目指す美麗なる製品のための産業工芸の必要性がすぐには理解されず。
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松岡壽、東京高等工業学校工業図案科科長として、安田禄造らと共に廃止反対。工芸図案に関する高等教育の必要性を訴え続ける。東京美術学校に移った関係者の不満も次第に高まり、分離独立の機運が高まる。
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1914(大正3)年 安田禄造(41歳)、オーストリア留学より帰国。東京高等工業学校工業図案科教授昇進。しかし、間も無く東京美術学校図案科に併合されることに。一人、東京高等工業学校に残る。
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1919(大正8)年8月20日 松岡壽(58歳)、文部省の高等工業学校拡充の政策にも合致、工業図案科を東京美術学校から独立。東京高等工業学校工業図案科の流れを汲み、工業学校と美術学校との境界領域・産業デザインを教授する専門学校として東京高等工藝学校(現・千葉大学工学部)創立が認められる。東京高等工業学校校長・吉武栄之進、安田禄造と共に創立委員に。
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1920(大正9)年 吉武栄之進(57歳)、東京高等工業学校第3代校長に。
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1923(大正12)年11月 吉武栄之進(60歳)、東京高等工藝学校第2代校長を兼任。
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1928(大正17)年4月 安田禄造(55歳)、東京高等工藝学校第4代校長に。以後、1941(昭和16)年まで在任。
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1942(昭和17)年12月16日 安田禄造(69歳)、死去。享年69歳。
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