ダイガクコトハジメ - 天野貞祐
出身校
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ハイデルベルク大学
関連する学校・組織(前史)
関連する学校・組織(現代)
関連する教育者
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岩下壮一
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内村鑑三
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九鬼周造
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桑木厳翼
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朝永三十郎
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西田幾多郎
参考情報
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参考文献・書籍
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年表 | 動画
天野貞祐
あまのていゆう
1843(天保14)年11月20日(旧暦・9月29日) - 1900(明治33)年2月26日
智山派勧学院大学林(大正大学の源流)講師、第七高等学校教師、学習院教授、京都帝国大学文学部教授、甲南高等学校(現・甲南大学)校長、第一高等学校校長、獨協大学創立・初代学長、文部大臣
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1884(明治17)年11月20日(旧暦・9月29日) 天野貞祐(1歳)、神奈川県津久井郡鳥屋村(現・相模原市)に豪農・天野藤三の子として生まれる。
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1896(明治29)年 天野貞祐(13歳)、教育熱心な父・天野藤三より将来医師になることを嘱望され、獨逸学協会学校中学校入学。母が病死、4年生時に退学。
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1904(明治37)年 天野貞祐(21歳)、内村鑑三『後世への最大遺物』を読み、自分の人生を見つめ直す。獨逸学協会学校中学校5年生として復学、主席で卒業。
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1905(明治38)年 天野貞祐(22歳)、獨逸学協会学校中学校を主席で卒業。獨逸学協会学校中学校校長・大村仁太郎に憧れ、教育者へと志望転向。第一高等学校入学。内村鑑三より直接教えを受ける。九鬼周造・岩下壮一と親友に。
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天野貞祐、京都帝国大学文科大学・大学院入学。桑木厳翼らの下、カント哲学専攻。在学中、カント『プロレゴーメナ』の日本語訳に取り組み、刊行。
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1912(明治45/大正元)年 天野貞祐(29歳)、京都帝国大学文科大学卒業。
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1913(大正2)年 天野貞祐(30歳)、『カント学者としてのフィヒテ』発表。
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1913(大正2)年 天野貞祐(30歳)、西田幾多郎の推挙により、智山派勧学院大学林(大正大学の源流)講師に。
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1914(大正3)年 天野貞祐(31歳)、第七高等学校のドイツ語教師に。
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天野貞祐、西田幾多郎らの推挙により、学習院教授に。
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1922(大正11)年 天野貞祐(39歳)、ドイツ・ハイデルベルク大学留学。哲学研究。
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1926(大正15/昭和元)年 天野貞祐(43歳)、桑木厳翼・朝永三十郎の推挙により、京都帝国大学助教授に。
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1930(昭和5)年 天野貞祐(47歳)、イマヌエル・カント『純粋理性批判』初の完訳版刊行。
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1931(昭和6)年6月 天野貞祐(48歳)、京都帝国大学で文学博士号を得る。
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1931(昭和6)年 天野貞祐(48歳)、京都帝国大学文学部教授に。
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1937(昭和12)年 天野貞祐(54歳)、『道理の感覚』刊行、台頭する軍部と軍国主義に対する批判が含まれていたことから、軍部や右翼、マスコミより糾弾される。自主絶版により不問とされる。以後も、『学生に与ふる書』刊行など警鐘を発し続ける。
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1944(昭和19)年 天野貞祐(61歳)、京都帝国大学退職。甲南高等学校(現・甲南大学)校長に。
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1945(昭和20)年 天野貞祐(62歳)、第一高等学校校長に。
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天野貞祐、日本野球の父・安部磯雄の急死により、日本学生野球協会会長・日本育英会会長を歴任。
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1950(昭和25)年 天野貞祐(67歳)、吉田茂内閣の文部大臣に。道徳教育の重要性を強調、自ら『国民実践要領』を草し、不評を買う。
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1953(昭和28)年 天野貞祐(70歳)、戦後日本の国家スタイルがドイツ型からアメリカ型に移行するに伴い、母校・獨逸学協会学校の後身である獨協学園が衰微。母校再建のため、獨協学園校長に。自らが信条とする「学問を通じての人間形成」の精神に則った獨協再建に尽くす。
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1961(昭和36)年 天野貞祐(78歳)、文化功労者に。
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1964(昭和39)年 天野貞祐(81歳)、獨協学園に獨協大学創立。初代学長に。
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天野貞祐、国立教育会館初代館長に。
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1973(昭和48)年 天野貞祐(90歳)、勲一等旭日大綬章を受勲。学生野球の面で野球殿堂が贈られる。
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1980(昭和55)年 天野貞祐(97歳)、死去。享年97歳。従二位受勲。
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