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北島多一
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年表より執筆、協力GoogleAI「Gemini」
約2,000文字(読了目安:5分程度)
「太陽の影と呼ばれた男」
北島多一の大学“始まり”物語
序章:俊英、官途を捨てて在野へ
北島多一の物語は、華々しい栄光の約束された道から、自らの意志で一歩踏み出す、静かな、しかし、あまりにも決定的な決断から始まります。1870年、金沢藩士の子として東京に生を受けた彼は、その明晰な頭脳を早くから開花させていました。1886年、弱冠16歳にして当時の最高学府である帝国大学医科大学に首席で合格し、授業料免除の特待生となったことは、彼の輝かしい未来を誰の目にも明らかにするものでした。
1894年、北島多一は再び首席で帝国大学医科大学を卒業し、天皇から恩賜の銀時計を拝受するという、学徒として最高の栄誉に浴します。帝国大学医科大学院へ進み、やがては教授として、あるいは内務省の高級官僚として、国家の中枢で活躍する。それこそが、誰もが疑わなかった彼のために用意された道でした。しかし、彼はその約束された道を自ら選びませんでした。大学院に進学後、彼はすぐさまその席を辞し、一人の男の元へと馳せ参じます。その男の名は、北里柴三郎。ドイツ留学から帰国したばかりで、国内の学閥と対立し、福澤諭吉らの支援を得てようやく私設の伝染病研究所を立ち上げたばかりの、在野の研究者でした。
官学の権威がすべてを支配していた時代に、約束されたエリートコースを捨て、いまだ無名の私設研究所の門を叩く。この選択は、周囲の理解を超えたものでした。しかし、そこには、純粋に学問の真理を探究したいという北島多一の燃えるような情熱と、権威に与することなく自らの信じる道を歩むという、彼の生涯を貫く強い意志が秘められていたのです。この最初の決断こそ、日本の近代医学史に不滅の礎を築くことになる、静かなる巨人の物語の、真の序章に他なりませんでした。
第一章:世界へ、そして師との共闘
北里柴三郎の右腕となった北島多一の才能は、すぐにその輝きを増していきます。彼の探究心は日本国内に留まらず、1897年、ドイツへと旅立ちます。そこで彼は、近代免疫学の巨星であり、後にノーベル賞を受賞するパウル・エールリヒの門下に入りました。フランクフルトの王立実験治療研究所で、当時世界最先端の学問であった血清学と免疫学の神髄を吸収する日々。この経験は、北島多一を単なる日本の俊英から、世界レベルの科学者へと飛躍させる決定的な転換点となりました。
4年間の留学を終えて帰国した彼を待っていたのは、師・北里柴三郎と共に歩む、研究と闘いの日々でした。そして1914年、彼の人生を揺るがす大事件が起こります。「伝研騒動」です。政府が、彼らが心血を注いで育て上げた国立伝染病研究所を、一方的に東京帝国大学の付属機関とすることを決定したのです。
これは、単なる組織の移管問題ではありませんでした。学問の独立と自由が、国家権力によって踏みにじられる暴挙でした。師である北里柴三郎の怒りは頂点に達します。この時、北島多一に迷いは一切ありませんでした。北里柴三郎が辞表を提出すると、彼は志賀潔ら研究所の全職員と共に、一斉にその職を辞したのです。激情家で理想を語る師の「動」に対し、冷静沈着な実務能力でそれを支える「静」の北島多一。彼は、新たに設立される北里研究所の設立実務の中心人物として奔走します。その姿は、揺るぎない忠誠心に満ちた弟子であると同時に、理想を現実に変える力を持った、最高の盟友そのものでした。
第二章:理想の継承、慶應医学の礎を築く
学問の独立を賭けた闘いを乗り越えた北里柴三郎の次なる挑戦は、かつての恩人・福澤諭吉への「報恩」でした。それは、慶應義塾に日本最高レベルの医学部を創設するという、壮大な理想でした。1917年、北里柴三郎がその初代学長(科長)に就任した時、この巨大な事業を現実のものとする実務のすべては、一人の男の双肩に託されました。その男こそ、北島多一でした。
北島多一は、新設された慶應義塾大学部医学科の主事に就任します。それは、事実上の最高責任者でした。北里柴三郎が医学科の「顔」であり「理念」の象徴であったとすれば、北島多一はその理念を具体的な形にする、建設の総責任者だったのです。彼がまず取り組んだのは、教育の根幹であるカリキュラムの策定でした。さらに、北里研究所が誇る、志賀潔をはじめとする日本最高の研究者たちを教授として招聘し、教育の質を担保しました。施設の整備から学生の指導まで、何もない更地の状態から、教育と研究の殿堂の礎を、彼は一つひとつ、その手で築き上げていったのです。
それは、「始まりを創る」という仕事でした。大学の直接的な創立者という華々しい名声はなくとも、北島多一という冷静沈着な実行者がいなければ、慶應義塾大学医学部という、日本の私学医学教育の金字塔が、これほど早く、そして確固たる形で産声を上げることは決してありませんでした。彼こそが、その「始まり」の真の設計者であり、実行者だったのです。
第三章:師亡き後、遺志を継ぐ者
1931年、近代日本の医学界を照らし続けた巨星、北里柴三郎がその生涯を閉じます。師亡き後、その巨大な遺産と遺志を継ぐという重責は、北島多一に託されました。彼は、北里研究所の第2代所長と、既に1928年から就任していた慶應義塾大学医学部医学部長という二つの重職を兼務し、師が遺した二大事業の発展にその身を捧げます。
彼は、単なる組織の管理者ではありませんでした。自身の研究者としての探究心も衰えることなく、沖縄の人々を長年苦しめていたハブ毒に対する抗毒血清の製造に成功し、多くの人命を救います。それは、師から受け継いだ「実学」の精神、すなわち学問は人々のためにあるべきだという信念の、見事な結実でした。
生涯を通じて、北島多一が自ら表舞台の中心に立つことは稀でした。しかし、その冷静な瞳は常に未来を見据え、その着実な両腕は、師の理想を現実の形へと変え続けました。北里柴三郎という太陽の光が強ければ強いほど、その光を確かな礎の上に受け止め、次代へと繋ぐ影の役割が不可欠でした。北島多一が築いた揺るぎない礎があったからこそ、日本の近代医学と私学教育は、今日に至るまで輝き続けることができたのです。