扨《さて》その写本の物理書、医書の会読《かいどく》を如何《どう》するかと云うに、講釈の為人《して》もなければ読んで聞かして呉《く》れる人もない。内証《ないしょ》で教えることも聞くことも書生間の恥辱《ちじょく》として、万々一も之《これ》を犯す者はない。唯《ただ》自分|一人《ひとり》で以《もっ》てそれを読砕《よみくだ》かなければならぬ。読砕くには文典を土台にして辞書に便《たよ》る外《ほか》に道はない。
その辞書と云うものは、此処《ここ》にヅーフと云う写本の字引《じびき》が塾に一部ある。是《こ》れは中々大部なもので、日本の紙で凡《およ》そ三千枚ある。之を一部|拵《こしら》えると云うことは中々大きな騒ぎで容易に出来たものではない。是れは昔長崎の出島に在留して居た和蘭《オランダ》のドクトル・ヅーフと云う人が、ハルマと云う独逸《ドイツ》和蘭対訳の原書の字引を飜訳したもので、蘭学社会唯一の宝書と崇《あが》められ、夫《そ》れを日本人が伝写して、緒方の塾中にもたった一部しかないから、三人も四人もヅーフの周囲《まわり》に寄合《よりあっ》て見て居た。夫れからモウ一歩|立上《のぼ》るとウエーランドと云《い》う和蘭《オランダ》の原書の字引が一部ある。それは六冊物で和蘭の註が入れてある。ヅーフで分《わか》らなければウエーランドを見る。所《ところ》が初学の間《あいだ》はウエーランドを見ても分る気遣《きづかい》はない。夫《それ》ゆえ便《たよ》る所は只《ただ》ヅーフのみ。
会読《かいどく》は一六とか三八とか大抵《たいてい》日が極《きま》って居て、いよ/\明日《あす》が会読だと云うその晩は、如何《いか》な懶惰《らいだ》生でも大抵寝ることはない。ヅーフ部屋と云う字引のある部屋に、五人も十人も群《ぐん》をなして無言で字引を引《ひき》つゝ勉強して居る。夫れから翌朝《よくあさ》の会読になる。会読をするにも籤《くじ》で以《もっ》て此処《ここ》から此処までは誰と極《き》めてする。会頭《かいとう》は勿論《もちろん》原書を持て居るので、五人なら五人、十人なら十人、自分に割当てられた所を順々に講じて、若《も》しその者が出来なければ次に廻す。又その人も出来なければその次に廻す。その中で解《げ》し得た者は白玉《しろたま》、解《げ》し傷《そこな》うた者は黒玉《くろだま》、夫れから自分の読む領分を一寸《ちょっと》でも滞《とどこお》りなく立派に読んで了《しま》ったと云う者は白い三角を付ける。是《こ》れは只の丸玉《まるだま》の三倍ぐらい優等な印《しるし》で、凡《およ》そ塾中の等級は七、八級|位《ぐらい》に分けてあった。而《そう》して毎級第一番の上席を三ヶ月|占《しめ》て居れば登級《とうきゅう》すると云う規則で、会読以外の書なれば、先進生が後進生に講釈もして聞かせ不審も聞《きい》て遣《や》り至極《しごく》深切にして兄弟のようにあるけれども、会読の一段になっては全く当人の自力《じりき》に任せて構う者がないから、塾生は毎月六度ずつ試験に逢《あ》うようなものだ。
爾《そ》う云《い》う訳《わ》けで次第々々に昇級すれば、殆《ほと》んど塾中の原書を読尽《よみつく》して云わば手を空《むなし》うするような事になる、その時には何か六《むず》かしいものはないかと云うので、実用もない原書の緒言《ちょげん》とか序文とか云うような者を集めて、最上等の塾生だけで会読《かいどく》をしたり、又は先生に講義を願《ねがっ》たこともある。私などは即《すなわ》ちその講義聴聞者の一人でありしが、之《これ》を聴聞する中にも様々先生の説を聞て、その緻密《ちみつ》なることその放胆《ほうたん》なること実に蘭学界の一大家《いちだいか》、名実共に違《たが》わぬ大人物であると感心したことは毎度の事で、講義終り、塾に帰《かえっ》て朋友|相互《あいたがい》に、「今日の先生の彼《あ》の卓説は如何《どう》だい。何だか吾々《われわれ》は頓《とん》に無学無識になったようだなどゝ話したのは今に覚えて居ます。
引用:『福翁自伝』福沢諭吉
初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号
文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。