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文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。

早稲田大学 | 『学問の独立と東京専門学校の創立』大隈重信 -2

 充分に学者達がそこに力を致したならば、必ず日本の学問はあらゆる教科書を皆日本の文字で、日本語で講義をすることが出来る。それから進んで著述をし、あるいはまた無いというものは翻訳をすれば必ず出来ることと考えたから、即ち私は学問の独立ということを大胆にも唱えたのである。


 その時には小野梓《おのあずさ》君、それから先刻市島君から申された六、七人の大学の人がこの時はまだ卒業はしていなかった、今に卒業しようという前に小野梓君が連れて私の所に六、七人の学生が来られた時分にその話をした。それからその人達が皆大いにもっともであるということで、ついにこの邦語を以て高尚なる学問を教えるということの端緒が現われた。それならばなぜ英語を教えるかという論があるかも知れぬが、これは今日でもまた将来でもこの英語その他の学問を多少やるのは必要である。かの欧羅巴《ヨーロッパ》人でも、希臘《ギリシャ》羅甸《ラテン》をやるのが必要であると同じく、学問の研究のためには随分この外国の言葉を学ぶという必要は今日でもまた将来でもある。学問の充分に独立した上のことである。


 それからその時の考えには理科というものを入れた。これも理科即ち物理学は、私はどうしても学問の土台となるものと考えたのである。ところがこの私立学校で、なかんずくこの理科にはどうもあまり社会が注意してくれぬ。そうしてなかなか理科は金が要る。入費が要る。どうも貧乏なる学校では続かぬ。それから教師が宜《よ》う来てくれぬ。そこでこの理科は先刻御話しする通り初陣《ういじん》に失敗をしたのである。この理科の失敗は千歳の遺憾である。理科どころではない。それから工科もやはりやられなかった。即ちこの邦語でやるという大胆な企ては、まず始めに政治、法律それと理科というものを置いた。なかなか工科とかその他のものへ及ぶところではない。まずそういう目的でこれが始まったのである。


初出:1897(明治30)年7月31日



文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。


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