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文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。

慶應義塾 | ​『福翁自伝』福沢諭吉 -13

 扨《さて》又|此処《ここ》に大《だい》不安心な事が生じて来た。私が江戸に来たその翌年、即《すなわ》ち安政六年、五国《ごこく》条約と云《い》うものが発布になったので、横浜は正《まさ》しく開《ひら》けた計《ばか》りの処、ソコデ私は横浜に見物に行《いっ》た。その時の横浜と云うものは外国人がチラホラ来て居る丈《だ》けで、堀立小屋《ほったてごや》見たような家が諸方にチョイ/\出来て、外国人が其処《そこ》に住《すん》で店を出して居る。其処《そこ》へ行て見た所が一寸《ちょい》とも言葉が通じない。此方《こっち》の云うことも分《わか》らなければ、彼方《あっち》の云うことも勿論《もちろん》分らない。店の看板も読めなければ、ビンの貼紙《はりがみ》も分らぬ。何を見ても私の知《しっ》て居る文字《もんじ》と云うものはない。英語だか仏語だか一向計らない。居留地をブラ/\歩く中《うち》に独逸《ドイツ》人でキニツフルと云う商人の店に打当《ぶちあたっ》た。その商人は独逸人でこそあれ蘭語蘭文が分る。此方《こっち》の言葉はロクに分らないけれども、蘭文を書けばどうか意味が通ずると云うので、ソコで色々な話をしたり、一寸《ちょい》と買物をしたりして江戸に帰《かえっ》て来た。御苦労な話で、ソレも屋敷に門限があるので、前の晩の十二時から行てその晩の十二時に帰たから、丁度《ちょうど》一昼夜歩いて居た訳《わ》けだ。

 

 横浜から帰《かえっ》て、私は足の疲れではない、実に落胆して仕舞《しまっ》た。是《こ》れは/\どうも仕方《しかた》がない、今まで数年《すねん》の間《あいだ》、死物狂《しにものぐる》いになって和蘭《オランダ》の書を読むことを勉強した、その勉強したものが、今は何にもならない、商売人の看板を見ても読むことが出来ない、左《さ》りとは誠に詰らぬ事をしたわいと、実に落胆して仕舞た。けれども決して落胆して居られる場合でない。彼処《あすこ》に行《おこなわ》れて居る言葉、書いてある文字は、英語か仏語に相違ない。所で今世界に英語の普通に行れて居ると云《い》うことは予《かね》て知《しっ》て居る。何でもあれは英語に違いない、今我国は条約を結んで開《ひら》けかゝって居る、左《さ》すればこの後《ご》は英語が必要になるに違いない、洋学者として英語を知らなければ迚《とて》も何にも通ずることが出来ない、この後は英語を読むより外《ほか》に仕方《しかた》がないと、横浜から帰た翌日だ、一度《ひとたび》は落胆したが同時に又|新《あらた》に志《こころざし》を発して、夫《そ》れから以来は一切万事英語と覚悟を極《き》めて、扨《さて》その英語を学ぶと云うことに就《つい》て如何《どう》して宜《いい》か取付端《とりつきは》がない。江戸中に何処《どこ》で英語を教えて居ると云う所のあろう訳《わ》けもない。


初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号



文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。


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