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文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。

慶応義塾 | ​『福翁自伝』福沢諭吉 -23

 私の考《かんがえ》はに少年を集めて原書を読ませる計《ばか》りが目的ではない。如何様《いかよう》にもしてこの鎖国の日本を開《ひらい》て西洋流の文明に導き、富国強兵|以《もっ》て世界中に後《おく》れを取らぬようにしたい。


 左《さ》りとて唯《ただ》これを口に言うばかりでなく、近く自分の身より始めて、仮初《かりそ》めにも言行|齟齬《そご》しては済《す》まぬ事だと、先《ま》ず一身の私を慎《つつ》しみ、一家の生活法を謀《はか》り、他人の世話にならぬようにと心掛けて、扨《さて》一方に世の中を見て文明改進の為《た》めに施して見たいと思う事があれば、世論に頓着《とんじゃく》せず思切《おもいきっ》て試《こころ》みました。例えば前にも申した通り、学生から授業料の金を取立てる事なり、武士の魂と云う双刀を棄《す》てゝ丸腰になる事なり、演説の新法を人に説《とい》て之《これ》を実地に施す事なり、又は著訳書に古来の文章法を破《やぶっ》て平易なる通俗文を用うる事なり、凡《およ》そ是等《これら》は当時の古風家に嫌われる事であるが、幸に私の著訳は世間の人気に役じて渇する者に水を与え、大旱《たいかん》に夕立のしたようなもので、その売れたことは実に驚く程の数でした。時節の悪いときに、ドンな文章家ドンな学者が何を著述したって何を飜訳《ほんやく》したって、私の出版書のように売れよう訳《わ》けはない。畢竟《ひっきょう》私の才力がエライと云《い》うよりも、時節柄がエラかったのである。又その時代の学者達が筆不調法であったか、馬鹿に青雲熱《せいうんねつ》に浮かされて身の程を知らず時勢を見ることを知らなかったか、マアそのくらいの事だと思われる。兎《と》にも角《かく》にも著訳書が私の身を立て家を成《な》す唯一の基本になって、ソレで私塾を開《ひらい》ても、生徒から僅《わずか》ばかりの授業料を掻《かき》集めて私の身に着けるようなケチな事をせずに、全く教師|等《ら》の所得にすることが出来たその上に、折々《おりおり》私の財嚢《ざいのう》から金を出して用を弁ずることも出来ました。


 所で私の性質は全体放任主義と云《い》おうか、又は小慾にして大無慾とでも云おうか、の事に就《つい》て朝夕心を用いて一生懸命、些細《ささい》の事まで種々無量に心配しながら、又一方ではこのにブラサガッて居る身ではない、是非《ぜひ》とも慶応義塾を永久に遺《のこ》して置かなければならぬと云《い》う義務もなければ名誉心もないと、初めから安心決定《あんしんけつじょう》して居るから、随《したがっ》て世の中に怖いものがない。同志の後進生と相談して思う通りに事を行えば、中|自《おのず》から独立の気風を生じて世間の反《そ》りに合わぬことも多いのと、又一つには私が政治社会に出ることを好まずに在野の身でありながら、口もあれば筆もあるから颯々《さっさつ》と言論して、時としてはその言論が政府の癪《しゃく》に障ることもあろう。


 実を云《い》えば私は政府に対して不平はない、役人達の以前が、無鉄砲な攘夷家であろうとも、人を困らせた奴であろうとも、一切《いっさい》既往を云《い》わず、唯《ただ》今日の文明主義に変化して開国一偏に国事を経営して呉《く》れゝば遺憾なしと思えども、何かの気まぐれに官民とか朝野《ちょうや》とか忌《いや》に区別を立てゝ、私塾を疏外し邪魔にして、甚《はなは》だしきは之《これ》を妨げんなんとケチな事をされたのには少々困りました。今これを云えば話も長し言葉も穢《きたな》くなるから抜きにして、近年帝国議会の開設以来は官辺《かんぺん》の風《ふう》も大《おおい》に改まりて、余り酷《ひど》い事はない。何《いず》れ遠からぬ中に双方打解けるように成るでしょう。


初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号



文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。


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