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文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。

慶応義塾 | ​『福翁自伝』福沢諭吉 -21

 畢竟《ひっきょう》私がこの日本に洋学を盛《さかん》にして、如何《どう》でもして西洋流の文明富強国にしたいと云う熱心で、その趣は慶応義塾を西洋文明の案内者にして、恰《あたか》も東道の主人と為《な》り、西洋流の一手販売、特別エゼントとでも云うような役を勤めて、外国人に頼まれもせぬ事を遣《やっ》て居たから、古風な頑固な日本人に嫌われたのも無理はない。


 元来《がんらい》私の教育主義は自然の原則に重きを置《おい》て、数と理とこの二つのものを本《もと》にして、人間万事有形の経営は都《すべ》てソレから割出して行きたい。又一方の道徳論に於《おい》ては、人生を万物中の至尊至霊のものなりと認め、自尊|自重《じちょう》苟《いやしく》も卑劣な事は出来ない、不品行な事は出来ない、不仁不義、不忠不孝ソンな浅ましい事は誰《たれ》に頼まれても、何事に切迫しても出来ないと、一身を高尚|至極《しごく》にし所謂《いわゆる》独立の点に安心するようにしたいものだと、先《ま》ず土台を定めて、一心不乱に唯《ただ》この主義にのみ心を用いたと云うその訳《わ》けは、古来東洋西洋|相対《あいたい》してその進歩の前後遅速を見れば、実に大造《たいそう》な相違である。双方共々に道徳の教《おしえ》もあり、経済の議論もあり、文に武におの/\長所短所ありながら、扨《さて》国勢の大体より見れば富国強兵、最大多数、最大幸福の一段《いつだん》に至れば、東洋国は西洋国の下に居らればならぬ。国勢の如何《いかん》は果して国民の教育より来《く》るものとすれば、双方の教育法に相違がなくてはならぬ。


 ソコで東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較して見るに、東洋になきものは、有形に於《おい》て数理学と、無形に於て独立心と、この二点である。彼《か》の政治家が国事を料理するも、実業家が商売工業を働くも、国民が報国の念に富み、家族が団欒《だんらん》の情に濃《こまやか》なるも、その大本《たいほん》を尋《たずね》れば自《おのず》から由来する所が分る。近く論ずれば今の所謂《いわゆる》立国の有らん限り、遠く思えば人類のあらん限り、人間万事、数理の外《ほか》に逸《いっ》することは叶わず、独立の外に依《よ》る所なしと云《い》うべきこの大切なる一義を、我日本国に於ては軽《かろ》く視《み》て居る。是《こ》れでは差向き国を開《ひらい》て西洋諸強国と肩を並べることは出来そうにもしない。全く漢学教育の罪であると深く自《みず》から信じて、資本もない不完全な私塾に専門科を設けるなどは迚《とて》も及ばぬ事ながら、出来る限りは数理を本《もと》にして教育の方針を定め、一方には独立論の主義を唱えて、朝夕《ちょうせき》一寸《ちょっと》した話の端《はし》にもその必要を語り、或《あるい》は演説に説《と》き或《あるい》は筆記に記しなどしてその方針に導き、又自分にも様々|工風《くふう》して躬行実践《きゅうこうじっせん》を勉《つと》め、ます/\漢学が不信仰になりました。


 今日にても本の旧生徒が社会の実地に乗出して、その身分職業の如何《いかん》に拘《かかわ》らず物の数理に迂闊《うかつ》ならず、気品高尚にして能《よ》く独立の趣意《しゅい》を全うする者ありと聞けば、是《こ》れが老余の一大楽事です。


初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号



文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。


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