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文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。

慶応義塾 | ​『福翁自伝』福沢諭吉 -19

 扨《さて》鉄砲洲《てっぽうず》のを芝《しば》の新銭座《しんせんざ》に移したのは明治元年|即《すなわ》ち慶応四年、明治改元の前でありしゆえ、塾の名を時の年号に取《とっ》て慶応義塾と名づけ、一時散じた生徒も次第に帰来しては次第に盛《さかん》になる。が盛になって生徒が多くなれば塾舎の取締も必要になるからして、塾則のようなものを書《かい》て、是《こ》れも写本は手間が取れると云《い》うので版本にして、一冊ずつ生徒に渡し、ソレには色々箇条のある中に、生徒から毎月金を取ると云うことも慶応義塾が創《はじ》めた新案である。


 従前、日本の私塾では支那風を真似たのか、生徒入学の時には束脩《そくしゅう》を納めて、教授する人を先生と仰《あお》ぎ奉《たてまつ》り、入学の後も盆暮《ぼんくれ》両度ぐらいに生徒|銘々《めいめい》の分に応じて金子《きんす》なり品物なり熨斗《のし》を附けて先生|家《か》に進上する習わしでありしが、私共の考えに、迚《とて》もこんな事では活溌《かっぱつ》に働く者はない、教授も矢張《やは》り人間の仕事だ、人間が人間の仕事をして金を取るに何の不都合がある、構うことはないから公然|価《あたい》を極《き》めて取るが宜《よ》いと云うので、授業料と云う名を作《つくっ》て、生徒一人から毎月|金《きん》二分《にぶ》ずつ取立て、その生徒には中の先進生が教えることにしました。その時に眠食する先進長者は、月に金四両あれば喰うことが出来たので、ソコで毎月生徒の持《もっ》て来た授業料を掻《か》き集めて、教師の頭に四両ずつ行《いき》渡れば死《しに》はせぬと大本《だいほん》を定《さだ》めて、その上に尚《な》お余りがあれば塾舎の入用にすることにして居ました。


 今では授業料なんぞは普通|当然《とうぜん》のようにあるが、ソレを始めて行うた時は実に天下の耳目を驚かしました。生徒に向《むかっ》て金二分持て来い、水引《みずひき》も要らなければ熨斗《のし》も要らない、一両|持《もっ》て来れば釣《つり》を遣《や》るぞと云《い》うように触込《ふれこ》んでも、ソレでもちゃんと水引を掛けて持て来るものもある。スルとこんな物があると札《さつ》を検《あらた》める邪魔になると云《いっ》て、態《わざ》と上包を還《かえ》して遣るなどは随分《ずいぶん》殺風景なことで、世間の人の驚いたのも無理はないが、今日それが日本国中の風俗習慣になって、何ともなくなったのは面白い。何事に由《よ》らず新工風《しんくふう》を運《めぐ》らして之《これ》を実地に行うと云うのは、その事の大小を問わず余程の無鉄砲でなければ出来たことではない。左《さ》る代りに夫《そ》れが首尾|能《よ》く参《まいっ》て、何時《いつ》の間にか世間一般の風《ふう》になれば、私の為《た》めには恰《あたか》も心願成就で、こんな愉快なことはありません。


初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号



文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。


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