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文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。

大学予備門 | 『私の経過した学生時代』夏目漱石 -2

 既に中学が前いう如く、正則、変則の二科に分れて居り、正則の方を修めた者には更に語学の力がないから、予備門の試験に応じられない。此等の者は、それが為め、大抵《たいてい》は或る私塾などへ入って入学試験の準備をしていたものである。


 その頃、私の知っている塾舎には、共立学舎、成立学舎などというのがあった。これ等の塾舎は随分|汚《きたな》いものであったが、授くるところの数学、歴史、地理などいうものは、皆原書を用いていた位であるから、なかなか素養のない者には、非常に骨が折れたものである。私は正則の方を廃《よ》してから、暫《しばら》く、約一年|許《ばか》りも麹町《こうじまち》の二松学舎に通って、漢学許り専門に習っていたが、英語の必要――英語を修めなければ静止《じっと》していられぬという必要が、日一日と迫って来た。そこで前記の成立学舎に入ることにした。


 この成立学舎と云うのは、駿河台《するがだい》の今の曾我祐準さんの隣に在《あ》ったもので、校舎と云うのは、それは随分不潔な、殺風景|極《きわ》まるものであった。窓には戸がないから、冬の日などは寒い風がヒュウヒュウと吹き曝《さら》し、教場へは下駄を履《は》いたまま上がるという風で、教師などは大抵大学生が学資を得るために、内職として勤めているのが多かった。


 でも、当時此の塾舎の学生として居た者で、目今有要な地位を得ている者が少くない。一寸《ちょっと》例を挙《あ》げて言って見ると、前の長崎高等商業学校長をしていた隈本《くまもと》有尚、故人の日高真実、実業家の植村俊平、それから新渡戸《にいとべ》博士諸氏などで、此の外《ほか》にも未だあるだろう。隈本氏は其の頃、教師と生徒との中間位のところに居たように思う。又新渡戸博士は、既に札幌農学校を済《すま》して、大学選科に通いながら、その間に来ていたように覚えて居る。何でも私と新渡戸氏とは隣合った席に居たもので、その頃から私は同氏を知っていたが、先方では気が付かなかったものと見え、つい此の頃のことである。同氏に会った折、


「僕は今日初めて君に会ったのだ」と初対面の挨拶《あいさつ》を交わされたから、私は笑って、


「いや、私は貴君《あなた》をば昔成立塾に居た頃からよく知っています」と云うと、


「ああ其那《そんな》ことであったかね」と先方《むこう》でも笑い出されたようなことである。


初出:1909(明治42)年1月1日



文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。


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