丁度《ちょうど》予科の三年、十九歳頃のことであったが、私の家は素《もと》より豊かな方ではなかったので、一つには家から学資を仰がずに遣《や》って見ようという考えから、月五円の月給で中村是公氏と共に私塾の教師をしながら予科の方へ通っていたことがある。
これが私の教師となった始めで、其私塾は江東義塾と云って本所に在《あ》った。或る有志の人達が協同して設けたものであるが、校舎はやはり今考えて見ても随分不潔な方の部類であった。
一カ月五円と云うと誠に少額ではあるが、その頃はそれで不足なくやって行けた。塾の寄宿舎に入っていたから、舎費|即《すなわ》ち食糧費としては月二円で済《す》み、予備門の授業料といえば月|僅《わずか》に二十五銭(尤《もっと》も一学期分|宛《ずつ》前納することにはなっていたが)それに書物は大抵学校で貸し与えたから、格別その方には金も要《かか》らなかった。先《ま》ず此の中から湯銭の少しも引き去れば、後の残分は大抵|小遣《こづか》いになったので、五円の金を貰うと、直ぐその残分|丈《だ》けを中村是公氏の分と合せて置いて、一所《いっしょ》に出歩いては、多く食う方へ費して了《しま》ったものである。
時間も、江東義塾の方は午後二時間|丈《だ》けであったから、予備門から帰って来て教えることになっていた。だから、夜などは無論落ち附いて、自由に自分の勉強をすることも出来たので、何の苦痛も感ぜず、約一年|許《ばか》りもこうしてやっていたが、此の土地は非常に湿気が多い為め、遂《つ》い急性のトラホームを患《わずら》った。それが為め、今も私の眼は丈夫ではない。親はそのトラホームを非常に心配して、「兎《と》に角《かく》、そんな所なら無理に勤めている必要もなかろう」というので、塾の方は退《ひ》き、予備門へは家から通うことにしたが、間もなくその江東義塾は解散になって了《しま》ったのである。
それから、後の学資はいうまでもなく、再び家から仰いでいたが、大学へ進むようになってからは、特に文部省から貸費を受けることとなり、一方では又東京専門学校の講師を勤めつつ、それ程、苦しみもなく大学を卒《お》えたような次第で、要するに何の益するところもなく、私は学生時代を回顧して、むしろ読者諸君のために戒《いましめ》とならんことを望むものである。
初出:1909(明治42)年1月1日
関連:大学予備門
文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。