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ダイガクコトハジメ - 大鳥圭介

大鳥圭介

出身校

  • 岡山藩校・閑谷学校

  • 適塾

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参考情報

参考文献・書籍

 

年表 | 動画

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  • 1833(天保4)年4月14日(旧暦・2月25日) 大鳥圭介(1歳)、播磨国赤穂郡赤松村(現・兵庫県赤穂郡上郡町岩木丙石戸)に医師・小林直輔の子として生まれる。幼名、慶太郎。

  • 大鳥圭介、父・小林直輔が学んだ岡山藩校・閑谷学校で漢学・儒学海・漢方医学を学ぶ。

  • 1849(嘉永2)年 大鳥圭介(17歳)、帰郷。蘭方医・中島意庵の助手に。

  • 1852(嘉永5)年5月2日 大鳥圭介(20歳)、蘭学修行のため、上阪。緒方洪庵適塾で蘭学・西洋医学を学ぶ。

1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)

アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。

1853(嘉永6)年 安政の改革

黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事および外交研究機関として、講武所・蕃書調所長崎海軍伝習所を設置。

  • 1853(嘉永6)年7月 勝海舟(31歳)、老中首座・阿部正弘の意見募集に対し、海防意見書提出。西洋式兵学校設立と正確な官板翻訳書刊行の必要を説く。これが阿部正弘の目に留まる。

  • 1854(嘉永7/安政元)年 大鳥圭介(22歳)、適塾の仲間と共に江戸へ。薩摩藩の知遇を得て、翻訳など手伝い。後に、坪井塾塾頭に。軍学・工学に関心。この時期、勝海舟の知遇を得る。

1857(安政4)年2月 蕃書調所発足

洋学所蕃書調所東京大学の源流)に改称、日本初の洋学研究教育機関として発足。古賀謹一郎が初代頭取に。既に蘭学者として高名だった箕作阮甫杉田成卿を教授として招聘。加えて、教授見習として三田藩・川本幸民、周防・手塚律蔵、宇和島藩出仕・村田蔵六(大村益次郎)、薩摩藩・松木弘庵(寺島宗則)、西周助(西周)、津田真一郎(津田真道)、箕作秋坪中村敬輔(中村敬宇・中村正直)加藤弘之など、幕臣に限らず各藩の俊才も含め幅広く採用。国内の著名な学者が集う。

  • 蕃書調所幕臣の子弟を対象に、蘭学を中心に隆盛な英学を加えた洋学教育を行う。また、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当。語学教育は活況、書籍は次第に充実。自然科学まで対象を拡げる。

  • 1857(安政4)年 大鳥圭介(25歳)、縄武館(江川塾)に兵学教授として招かれる。

  • 1857(安政4)年 大鳥圭介(25歳)、中浜万次郎に英語を学ぶ。

  • 1858(安政5)年 大鳥圭介(26歳)、服部元彰の紹介により、尼崎藩に8人扶持で取り立てられ、藩士となる。

  • 1858(安政5)年、蕃書調所幕臣の子弟に限らず、諸藩士の子弟の入学も認める。

  • 1859(安政6)年、教授手伝​に、坪井信良、赤沢寛堂、箕作秋坪が加わる。

  • 1859(安政6)年 大鳥圭介(27歳)、蕃書調所に出仕。

  • 1860(安政7/万延元)年 大鳥圭介(28歳)、『砲科新編』翻訳出版。日本初の合金製活版を作り、大鳥活字と呼ばれる。

  • 1861(万延2/文久元)年12月 大鳥圭介(29歳)、江川英敏の推挙により、御鉄砲方附蘭書翻訳方出役として出仕。

1862(文久2)年1月3日(旧暦・11月14日) 学問所奉行設置

文久の改革の一環として、幕府教育機関の振興を意図した学問所奉行を設置。祭酒である林大学頭以下を指揮、昌平坂学問所(昌平黌)および蕃書調所の監督を行う。初代奉行に、田中藩主本多正納・高鍋藩世子秋月種樹を任命。蕃書調所昌平坂学問所(昌平黌)と同格の幕府官立学校に。

 

  • 1862(文久2)年6月15日(旧暦・5月18日)、蕃書調所、「蕃書」の名称が実態に合わなくなったことを理由に、洋書調所に改称。​

  • 1863(文久3)年10月11日(旧暦・8月29日)、洋書調所開成所に改称。中国の『易経』繋辞上伝の中の「開物成務」(あらゆる事物を開拓、啓発し、あらゆる務めを成就する)に基づくとされる。

  • 1863(文久3)年 大鳥圭介(31歳)、海陸軍兵書取調方出役。開成所教授を兼務。

  • 大鳥圭介、二院制議会の採用を幕府に建言。

  • 1865(元治2/慶応元)年1月28日 大鳥圭介(33歳)、陸軍所に出仕。富士見御宝蔵番格として、正式に幕臣に取り立てられる。俸禄50俵3人扶持の旗本に。

  • 1865(慶応元)年 矢野二郎(21歳)、幕府がフランス式兵制を採用した際の募兵に応じ、益田孝と共に騎兵伝習隊に入隊。指図役心得に。来日した仏軍事顧問団の下で演習参加。

  • 1867(慶応3)年1月 大鳥圭介(35歳)、騎兵伝習隊創設を進める幕府勘定奉行・小栗忠順に頼み、同じく幕臣の矢野次郎・荒井郁之助・沼間守一らと共に参加。

  • 1867(慶応3)年10月23日 大鳥圭介(35歳)、歩兵隊長として士官教育を受け、歩兵頭並に。幕府陸軍の育成や訓練にあたる。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1868(慶応4/明治元)年1月28日 大鳥圭介(36歳)、歩兵頭に。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

  • 1868(慶応4/明治元)年1月17日 勝海舟(46歳)、戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いにて幕府軍敗北。官軍の東征が始まると、老中・板倉勝静により、海軍奉行並に起用される。次いで、陸軍総裁に昇進。陸軍取扱に異動、恭順姿勢を取る徳川慶喜の意向に沿い、徹底抗戦を主張するフランスとの関係を清算。会計総裁・大久保一翁らと朝廷交渉に向かう。官軍が駿府城まで迫ると、早期停戦と江戸城の無血開城を主張。

  • 1868(慶応4/明治元)年 大鳥圭介(36歳)、鳥羽・伏見の戦い後、江戸城における評定にて、小栗忠順・水野忠徳・榎本武揚らと共に交戦継続を強硬に主張。

  • 1868(慶応4/明治元)年2月28日 大鳥圭介(36歳)、陸軍の最高幹部である歩兵奉行に。

1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し

官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。

  • 1868(慶応4/明治元)年4月11日 大鳥圭介(36歳)、江戸開城、伝習隊を率いて江戸を脱走。

  • 大鳥圭介、本所・市川を経て、小山・宇都宮・今市・藤原・会津を松平太郎・土方歳三等と合流しつつ、転戦。母成峠の戦い伝習隊は壊滅的な損害を受けたものの辛うじて全滅は免れ、仙台に。

  • 1868(慶応4/明治元)年 日下義雄(17歳)、会津戦争に従軍。大鳥圭介らと行動を共にする。落城前に会津を脱出。

  • 大鳥圭介、仙台にて榎本武揚と合流、蝦夷地に渡る。箱館政権の陸軍奉行に。

  • 1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 日下義雄(17-18歳)、箱館戦争(五稜郭の戦い)に従軍、捕虜となる。

  • 1869(明治2)年5月18日 大鳥圭介(37歳)、五稜郭で降伏。東京へ護送され、軍務局糺問所へ投獄。

  • 1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日) 伊藤博文(30歳)山尾庸三と共に工部省設立に尽力。鉄道技師長エドモンド・モレルの提案を受け、お雇い外国人技術者に頼るのではなく日本人技術者を養成すべきとし、教務部併設を主張。太政官制度の下、日本近代化のための社会基盤整備と殖産興業推進を目的とする中央官庁として、工部省設置。​初代工部卿として、殖産興業を推進。殖産興業は後に、内務卿・大久保利通の下、内務省へと引き継がれる。

  • 1871(明治4)年9月29日(旧暦・8月14日) 伊藤博文(31歳)、工部省に鉄道・造船・鉱山・製鉄・電信灯台・製作・工学・勧工・土木の10寮と測量の1司を配置。山尾庸三工学寮と測量司の長官に。

  • 1871(明治4)年9月29日(旧暦・8月14日) 山尾庸三(35歳)、工部省の10寮1司の一等寮として、技術者養成のための工学寮創設。工部権大丞として、初代工学頭に。海外留学制度・国内技能研修制度(修技校)・技術大学制度(工学校)を通し、一元的に官職技術者育成を図る。最終的に工学寮工学校のみの直轄に。

  • 1871(明治4)年11月 山尾庸三(35歳)工学寮教師団の人選を依頼していたエドモンド・モレルが急逝。代わって教師団を人選、旧知のヒュー・マセソンに雇用協力を打診、快諾を得る。グラスゴー大学より工学教師ヘンリー・ダイアーを筆頭とする俊英が選ばれる。1873(明治6)年、教師団が来日。ヘンリー・ダイアーは当初の小学校と呼ばれる複数学校群設立案を退け、工学校(大学校)設置を立案。

  • 1872(明治5)年1月8日 大鳥圭介(40歳)、特赦により出獄。新政府に出仕。左院少議官、開拓使5等出仕を経て、大蔵小丞兼任。欧米各国を開拓機械の視察と公債発行の交渉に歴訪。

  • 1873(明治6)年11月、工学寮工学校、基礎課程・専門課程・実地課程(各2年)の3期6年制学校として発足。ヘンリー・ダイアーが初代都検となり、実質的に校長を務めた。土木・機械・造家(建築)・電信・化学・冶金・鉱山・造船の6学科とする学則・カリキュラムが制定される。

  • 1874(明治7)年3月 大鳥圭介(42歳)、帰国後、開拓使に戻る。

  • 大鳥圭介、陸軍大佐に。

  • 1875(明治8)年 大鳥圭介(43歳)、工部省四等出仕。技術官僚として、殖産興業政策に貢献。工作局長として、官営工場を総括。セメント・ガラス・造船・紡績などのモデル事業を推進するなどインフラ開発に関わる。工学寮権頭兼製作寮頭に。

  • 1876(明治9)年、工学寮工学校内に、日本最初の美術教育機関・工部美術学校設立。ルネサンス美術の中心地であるイタリアより、お雇い外国人が起用される。画学科・彫刻科の二科設置。純粋な西洋美術教育のみの機関であり、日本画や木彫は行われなかった。

  • 大鳥圭介、内国勧業博覧会の審査員に。国内諸産業の普及と民力向上に尽力。

  • 1877(明治10)年1月、工学寮廃止。ボアンヴィル設計による、当時世界で最も優れた工業教育施設とされる本館が完成。工学寮工学校は、工部大学校に改称。初代校長に、工作局長・大鳥圭介。イギリスから招聘された技師たちの指導の下、理論研究と実地修練を組み合わせた高度な工学教育を行う。官費生には奉職義務があり、卒業後7年間は官庁で働く取り決めに。

  • 1877(明治10)年 大鳥圭介(45歳)、工部大学校発足、初代校長に。

  • 1877(明治10)年6月 大鳥圭介(45歳)、荒井郁之助・金子精一・志田林三郎・高嶺譲吉ら工部大学校の生徒と共に、日本初の工業雑誌『中外工業新報』発刊。先進的技術の普及に尽力。

1879(明治12)年 東京学士会院設立

文部卿・西郷従道の発案に基づき、研究者による議論や評論を通じ学術の発展を図ることを目的とする政府機関東京学士会院が設立される。当時の日本を代表する知識人とされた加藤弘之・神田孝平・津田真道・中村正直西周福澤諭吉箕作秋坪が創立会員7名に。初代会長は、福澤諭吉

  • 1881(明治14)年12月3日 大鳥圭介(49歳)、工部技監に昇進。勅任官となり、技術者として最高位に。

  • 1881(明治14)年 大鳥圭介(49歳)、東京学士会院会員に。

  • 1882(明治15)年 大鳥圭介(50歳)、『堰堤築法新按』翻訳。民間草の根レベルの水利・ダム技術の紹介などに務める。

1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足

太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼

  • 1885年(明治18)年、太政官制度廃止により内閣制度発足。工部省が廃止され、逓信省と農商務省に分割・統合。工部大学校文部省に移管される。

  • 1885(明治18)年12月28日 大鳥圭介(53歳)、元老院議官に。

1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学

高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。初代総長に渡辺洪基を勅任。

  • 1886(明治19)年4月10日 大鳥圭介(54歳)、学習院第3代院長兼華族女学校校長に。技術・教育関係の役職を歴任。

  • 1889(明治22)年6月3日 大鳥圭介(57歳)、外交官に転じ、駐清国特命全権公使に。

  • 1893(明治26)年7月 大鳥圭介(61歳)、朝鮮公使を兼任。

  • 1894(明治27)年6月 大鳥圭介(62歳)、朝鮮赴任。大院君に対し、朝鮮の近代化を建言。朝鮮の独立運動派から発砲を受けるなど、日清戦争開戦直前の困難な外交交渉に当たる。

  • 1894(明治27)年10月11日 大鳥圭介(62歳)、朝鮮公使解任。帰国後、枢密顧問官に。

  • 1900(明治33)年5月9日 大鳥圭介(68歳)、男爵に叙せられる。

  • 1911(明治44)年6月15日 大鳥圭介(79歳)、死去。享年79歳。

大鳥圭介

おおとりけいすけ

1833(天保4)年4月14日(旧暦・2月25日) - 1911(明治44)年6月15日

御鉄砲方附蘭書翻訳方、海陸軍兵書取調方、開成所教授、幕府陸軍歩兵奉行、箱館政権陸軍奉行、左院少議官、開拓使、大蔵小丞、陸軍大佐、工部省工作局長、工学寮権頭、工部美術学校校長、工部大学校初代校長、工部技監、東京学士会院会員、元老院議官、学習院第3代院長兼華族女学校校長、駐清国特命全権公使、朝鮮公使、枢密顧問官

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