ダイガクコトハジメ - 工部大学校

工部大学校

 

創立  : 1877(明治10)年1月

創立者 : 伊藤博文山尾庸三

​前史  :

工部省工学寮工学校 → 工部大学校 → 東京大学工芸学部と合併し帝国大学工科大学に → 東京大学工学部

文部省図画取調掛と工部省工部大学校内工部美術部を統合 → 東京美術学校 → 東京藝術大学美術学部

​「工部大学校」年表

1870(明治3)年10月20日/12月12日

  • 鉄道技師長エドモンド・モレル、伊藤博文に工部省設置を提案。その中で明治政府は、お雇い外国人技術者に頼るのではなく、日本人技術者を養成すべきとし、教務部併設を主張した。太政官制度の下、日本近代化のための社会基盤整備と殖産興業推進を目的とする中央官庁として、工部省設置。

1870(明治3)年10月20日/12月12日

  • 伊藤博文(29歳)、鉄道技師長エドモンド・モレルの提案を受け、山尾庸三と共に工部省設立に尽力。初代工部卿として、殖産興業を推進。後に、内務卿・大久保利通の下、内務省へと引き継がれる。

1871(明治4)年8月14日/9月29日

  • 伊藤博文(29歳)、工部省に鉄道、造船、鉱山、製鉄、電信、灯台、製作、工学、勧工、土木の10寮と測量の1司を配置。山尾庸三を「工学寮」と測量司の長官に。

1871(明治4)年8月14日/9月29日

  • 山尾庸三(33歳)、工部省の10寮1司の一等寮として「工学寮」創設。工部権大丞として、初代工学頭に。

  • 「工学寮」は当初、海外留学制度、国内技能研修制度(修技校)、技術大学制度(工学校)を通し、一元的に官職技術者を育成する部局であったが、最終的に「工学寮工学校」のみの管轄となる。

1873(明治6)年11月

  • 「工学寮工学校」、実践的技術者養成を目的に、スクール(小学校)とカレッジ(大学校)からなるはずであったが、イギリスから小学校教師団任用がうまくいかず。予備教育を含んだ6年制の大学校として、開校。

1876(明治9)年

  • 日本最初の美術教育機関、「工部美術学校」設立。ルネサンス美術の中心地であるイタリアより、お雇い外国人が起用される。「画学科」「彫刻科」二科設置、純粋な西洋美術教育のみの機関であり、日本画や木彫は行われなかった。

1877(明治10)年1月

  • 「工学寮」廃止。ボアンヴィル設計による当時世界で最も優れた工業教育施設と考えられた、本館が完成。「工学寮工学校」は、「工部大学校」と改称。初代校長に、工作局長・大鳥圭介。イギリスから招聘された技師たちの指導の下、理論研究と実地修練を組み合わせた高度な工学教育を行う。官費生には奉職義務があり、卒業後7年間は官庁で働く取り決めに。

1880年代前半

  • 工部卿・佐々木高行の下、鉄道・電信などを除き、官営工場の民間払下げが進められる(官営事業払下げ)。

1882(​明治18)年 - 1883(明治19)年

  • アーネスト・フェノロサの提言などもあり、日本美術の再評価が行われ、国粋主義が台頭。西洋美術教育「工部美術学校」廃校。

1884(明治17)年

1885年(​明治18)年12月22日

  • 太政官制度廃止により内閣制度発足。工部省が廃止され、逓信省と農商務省に分割・統合。「工部大学校」は、文部省に移管される。

1886(明治19)年3月2日-4月10日公布
学校令、教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。​​

1886(明治19)年3月2日公布 4月1日施行

帝国大学令、「帝国大学」について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とされ、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科・医科・工科・文科・理科からなる5つの分科大学から構成され、これらをまとめる総長は勅任官とされた。

1886年(​明治19)年

1887(明治20)年10月

  • 岡倉天心(24歳)、欧米調査における美術学校の組織管理および学科教授法の報告に基づき、文部省図画取調掛と工部省工部大学校内「工部美術部」を統合、「東京美術学校」が設立される。

1888(明治21)年8月 - 1890(明治23)年9月

  • 学習院」、火事で校舎消失。麹町区三年町の「工部大学校」跡に移転。後に、四谷区尾張町に移転。​

1889(明治22)年

  • 日本最初の国立美術教育機関「工部美術学校」、西洋美術教育のみで発足するも、財政事情悪化に加え、欧化政策の反動から国粋主義が台頭、1883(明治19)年に廃校。1889(明治22)年、新たに国立の美術教育機関「東京美術学校」が開校するも、西洋美術が排されたため、「工部美術学校」出身の西洋美術作家達を中心に、当時の洋画家ほぼ全員約80名が大同団結、「明治美術会」発足。当初は、反「東京美術学校」の一面を備えていたが、黒田清輝が入会、政府への人脈を獲得。

1896(明治29)年

  • 黒田清輝が「明治美術会」脱退、「白馬会」結成。「東京美術学校」に黒田清輝を中心として、西洋画科が設置される。明治美術会は次第に勢力が衰え、1901(明治34)年に廃止。

1889(明治22)年

  • 松岡壽(26-27歳)、「明治美術会」参加。印象派風の新画風で新派「外光派」(紫派)と呼ばれた黒田清輝に対し、「工部美術学校」系の西洋画家は旧派「脂派」と呼ばれる。藤島武二ら多くの後進を指導。

1890(明治23)年