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ダイガクコトハジメ - 東京工業大学

東京工業大学

 

創立  : 1881(明治14)年5月26日

大学設立: 1929(昭和4)年4月1日

創立者 : ゴットフリード・ワグネル、手島精一

​前史  :

東京開成学校製作学教場 → 東京職工学校 → 帝国大学付属学校に移管も、再独立 → 東京工業学校 → 東京高等工業学校 → 東京工業大学

東京工業学校工業図案科 → 東京高等工業学校工業図案科 → 東京美術学校図案科東京高等工藝学校 → 東京工業専門学校 → 千葉大学東京工業専門学校千葉大学工芸学部 → 千葉大学工学部

高等商業学校附属商工徒弟講習所職工科 → 東京職工学校職工徒弟講習所 → 東京高等工業学校附属職工徒弟学校 → 東京高等工藝学校附属工芸実修学校 → 千葉大学付属高等学校に → 東京工業大学付属高等学校に移管

​総称  : 三工大

​「東京工業大学」年表

1870(明治3)年

  • 手島精一(19-20歳)、藩より学費を借り、渡米。建築学・物理学を学ぶつもりであったが、廃藩置県で送金がなくなる。岩倉遣外使節団の訪米時の通訳を務め、さらにイギリス随行。

1870(明治3)年 - 1874(明治7)年末

  • 手島精一(19-24歳)、渡米・渡英中に得た産業技術一般に関する豊富な知識と広い視野で、工業知識普及と工業教育振興に関する論説を新聞紙上にしばしば発表。このことが、後に唯一の中等工業教育機関であった「製作学教場」の最高責任者の職に就くきっかけに。

1874(明治7)年

  • 東京開成学校教師兼顧問として日本の工業教育に多大な貢献をしていたワグネル、文部卿に低度工業教育実現の急務を建議。「およそ一国の富を増進するには、主として工業の発達を図るべく、工業の発達を図るにはまず低度の工業教育を盛んにして工業上最も必要な職工長その他の技術者を養成しなければならぬ」。これが受け入れられ、「東京開成学校」内に工業関係の実務者を簡易速成することを目的とする「製作学教場」設立。後の「東京職工学校」の前身となる。

1876(明治9)年4月

  • 手島精一(26歳)、文部大輔・田中不二麿に随行、独立100年記念の米国フィラデルフィア万国博覧会に出席。ロシア陳列館における出品物と出会う。日本の工業教育方法を模索していた中、大きな衝撃を受け、その後の実習重視の工業教育論を方向づけることに。

1877(明治10)年4月12日

  • 東京開成学校本科」と「東京医学校」が統合。法・理・文・医4学部からなる、「東京大学」設立。しかし、1881年の組織改革に至るまで、実態は「旧東京開成学校」と「旧東京医学校」の連合体であった。

1877(明治10)年

  • 東京大学理学部」に化学・機械・土木・採鉱冶金の諸科を設置、「製作学教場」よりも高等の学術を教授するように。存続は不必要とみられ、「製作学教場」を閉鎖。しかし、文部省は再び低度工業教育の必要を認め、「製作学教場」の後身とも見なされる「東京職工学校」設立へ動く。

1878(明治11)年2月

  • 手島精一(28歳)、パリ万国博覧会を視察、工業教育の重要性を認識。行動を共にしていた九鬼隆一も、パリ万国博覧会への参加を機に、実業教育、とくに中等程度の工業教育の必要性をますます痛感。​​

1881(明治14)年5月26日

  • 手島精一(30-31歳)、「東京開成学校製作学教場」の理念を継承する中等工業技術教育の必要性を主張し続け、また文部省内の文部大輔・九鬼隆一、専門学務局長・濱尾新が有力な工業教育推進論者として同調。共に、官立の「東京職工学校」創立。「職工学校ノ師範若シクハ職工長タル者ニ必須ナル諸般ノ工芸等ヲ教授スル」学校と位置付けられ、「東京大学理学部」を卒業した日本人教員が教鞭をとる。先行の「製作学教場」・「工部大学校」・「東京大学」の教官は大半が外国人で占められており、様相が大きく異なっていた。初代校長に、正木退蔵

1881(明治14)年9月27日

  • 正木退蔵(34歳)九鬼隆一により日本に呼び戻される。「東京職工学校」創立手続きに奔走。「東京職工学校」創立。初代校長に。学則改正、煉瓦校舎建設、学生募集に当たった後、「化学工芸科実験工場」を設立。

  • 開校当初、機械工芸科・化学工芸科からなる本科、および予科で構成。

  • 浅草区蔵前の浅草文庫の建物にて、新校舎建設と開学準備が行われる。「煙突のある所蔵前人あり」といわれるほど豊富な人材を排出、関東大震災で校舎消失するまで、蔵前は工業技術教育発展のめざましい活動の舞台となる。

1884(明治17)年11月

  • ワグネルが唯一の外国人教官に就任。「陶器玻璃工科」主任になると、陶器・ガラス・漆器など、明治以前からの日本の伝統工芸を近代産業へと発展させていくための教育が行われる。

  • 開校当初、前近代の伝統的な徒弟制度の下での技術伝承より、近代的・科学的な技術教育への転換を背景とするさまざな困難に直面。生徒がなかなか集まらず、入学者の中からも退学が続出するなど不振の時期が続く。不振を理由に、農商務省への移管論、不要論、廃止論が絶えなかった。

1886(明治19)年3月2日-4月10日公布

学校令、教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。​​

1886(明治19)年3月2日公布 4月1日施行

​帝国大学令、「帝国大学」について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とされ、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科・医科・工科・文科・理科からなる5つの分科大学から構成され、これらをまとめる総長は勅任官とされた。

1886(明治19)年4月29日

1886(明治19)年

  • 学校維持を図るため、「帝国大学」附属学校に移管。

1887(明治20)年10月4日

  • 最初の卒業式を挙行した後、再び独立学校として「帝国大学」より分離。

1890(明治23)年

  • 手島精一(39-40歳)、病気がちであった正木退蔵に代わり、「東京職工学校」第2代校長に。生徒たちに評判の悪かった「東京職工学校」の校名を、「東京工業学校」に改称。学校規則改正、地方入試制度や尋常中学校卒業生のうち工業関係科目で優秀な者の無試験入学制度を設けるなど、高等教育機関としての格付けに尽力。学校運営は安定期に入り、入学者数も増加。職工長・工師・教員・企業家養成を中心とする工業教育の指導的機関へと発展。

1890(明治23)年1月

1890(明治23)年3月24日

  • 「東京職工学校」、「東京工業学校」に改称。

1898(明治31)年2月8日

1899(明治32)年2月

1899(明治32)年9月

  • 「東京工業学校工業図案科」、工業製品は性能は基より、使いやすく美しくなければならない、という考えに基づき設置。

1901(明治34)年5月10日

  • 「東京工業学校」、「東京高等工業学校」に改称。

1903(明治36)年3月27日公布

専門学校令、中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。専門学校には、予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。

1903(明治36)年

1906(明治39)年

  • 松岡壽(43-44歳)、西洋画地位向上に努めると共に、美術工芸品の向上にも尽力。特許局審査官として、産業としての工芸品の発展にも尽くす。この手腕を「東京高等工業学校」手島精一校長に見込まれ、東京高等工業学校工業図案科」科長として迎えられる。

  • 安田禄造、「東京高等工業学校工業図案科」卒業。卒業と同時に、「東京高等工業学校工業図案科」助教授に。

1906(明治39)年

- 1914(大正3)年

  • 安田禄造(-40歳)、「東京高等工業学校工業図案科」科長・松岡壽の働きかけにより、教員の海外派遣が実現。最初の派遣者に。オーストリア留学。「ウィーン工芸学校」にて、建築家・デザイナーとしてモダンデザインの道を切り拓いた先駆者の一人・ホフマンに師事。ホフマンの現実的で実用的な様式を追及する姿勢が、「東京高等工業学校図案科」が目指す方向と合致。その後、西欧各地を巡る。

1914(大正3)年

  • 安田禄造(39-40歳)、オーストリア留学より帰国。「東京高等工業学校工業図案科」教授昇進。しかし、間も無く東京美術学校図案科」に併合されることに。一人、「東京高等工業学校」に残ることに。「東京高等工業学校工業図案科」の教官と在校生全員は、「東京美術学校図案科」に移ることに。

1914(大正3)年

  • 「東京高等工業学校工業図案科」、「東京美術学校図案科」に併合され、廃止に。在学生、「東京美術学校」転入。しかし、「機能美」実現に不可欠な工学的要素がうまく教えられず、また、日本美術に重きを置き、合理的な西洋美術が軽んじられる当時の風潮も重なり、工業図案科が目指す美麗なる製品のための「産業工芸」の必要性はすぐには理解されず。

1914(大正3)年 - 1916(大正5)年

第一次世界大戦

1916(大正5)年9月22日

  • 手島精一(66歳)、「東京高等工業学校」校長辞任。名誉教授の称号を授けられる。校長として25年の長きにわたり、産業の近代化に沿った学科設備の拡充と教育レベルの引き上げを行い、日本各地の工業学校の指導者、産業界のリーダーを数多く輩出する高等専門学校へと、発展牽引。

1916(大正5)年

1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行

大学令、原敬内閣の高等教育拡張政策に基づき、法制度上における「帝国大学」と別種の大学を設置。専門学校の大学への昇華が認可される。大学の性格を、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養二留意スヘキモノトス」と規定。その構成に関し、数個の学部を置くのを常例とするとし、設置する学部として法学・医学・工学・文学・理学・農学・経済学および商学の8学部をあげる。特別の必要のある場合には1個の学部を置くことができるとし、単科大学の成立も認めた。

1919(大正8)年1月-2月

  • ​蔵前工業会臨時総会で大学昇格を決議。翌2月、日本工業倶楽部も建議書を政府に提出。

1919(大正8)年8月20日

1920(大正9)年

​1921(大正10)年12月9日

1923(大正12)年9月

  • ​関東大震災、浅草蔵前の校舎が罹災。大学昇格が正式決定していたが、実現延期を余儀なくされる。

1923(大正12)年

1924(大正13)年3月29日

1924(大正13)年4月

  • ​校舎を蔵前の地より、大岡山へ移転。

1924(大正13)年

  • 「附属職工徒弟学校」を「東京高等工芸学校」に移管。

1929(昭和4)年4月1日

  • ​大学昇格、「東京工業大学」に。染料化学科、紡織学科、窯業学科、応用化学科、電気化学科、機械工学科、電気工学科及び建築学科の8学科と数学教室、物理学教室、物理化学教室及び分析化学教室の4教室設置。

1942(昭和17)年5月

  • 「附属高等工業教員養成所」設置。

1946(昭和21)年3月

学制改革、第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づき、日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、「東京帝国大学」総長・南原繁らにより推進される。主な内容は複線型教育から単線型教育の「6・3・3・4制」の学校体系への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを除去、教育機会の均等を主目的とした。

1949(昭和24)年5月31日公布・施行

国立学校設置法、学制改革に伴い、日本国が直接設置、文部省管轄であった国立大学について、新制国立大学を設置、旧制国立大学を包括することに。69の新制国立大学が発足。

1951(昭和26)

  • 東京高等工芸学校」より「附属職工徒弟学校」を再度移管。「東京工業大学附属科学技術高等学校」の前身に。

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