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ダイガクコトハジメ - 東京工業大学

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学校略歴

  • 1874(明治7)年、ワグネル、「およそ一国の富を増進するには、主として工業の発達を図るべく、工業の発達を図るにはまず低度の工業教育を盛んにして工業上最も必要な職工長その他の技術者を養成しなければならぬ」、低度工業教育実現の急務を建議東京開成学校内に工業関係の実務者を簡易速成することを目的とする製作学教場設立

  • 1876(明治9)年9月3日、手島精一製作学教場事務取締に、工業教育にあたる​

  • 1877(明治10)年4月12日、東京大学創立、東京開成学校本科東京医学校が統合、法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生、しかし実態は1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった

  • 1877(明治10)年5月26日、東京大学理学部に化学・機械・土木・採鉱冶金の諸科を設置、製作学教場よりも高等の学術を教授するように、存続不要とみられ製作学教場閉鎖

​← 東京大学

  • 1881(明治14)年5月26日手島精一製作学教場の理念を継承する中等工業技術教育の必要性を主張、文部大輔・九鬼隆一や専門学務局長・濱尾新が有力な工業教育推進論者として同調、官立の東京職工学校創立、「職工学校ノ師範若シクハ職工長タル者ニ必須ナル諸般ノ工芸等ヲ教授スル」学校と位置付けられ、東京大学理学部を卒業した日本人教員が教鞭を執る、機械工芸科・化学工芸科からなる本科および予科設立

  • 浅草蔵前の浅草文庫の建物にて新校舎建設と開学準備が行われる、「煙突のある所蔵前人あり」といわれるほど豊富な人材を排出、関東大震災で校舎消失するまで蔵前は工業技術教育発展のめざましい活動の舞台に

  • 1886(明治19)年4月、閉校の危機に直面していた東京職工学校の維持を図るため、帝国大学の附属学校に、翌年独立分離

  • 1890(明治23)年1月、高等商業学校附属商工徒弟講習所移管、職工徒弟学校に改称

​← 一橋大学

  • 1890(明治23)年3月24日、東京工業学校に改称、学校運営は安定期に入り入学者数増加、職工長・工師・教員・企業家養成を中心とする工業教育の指導的機関へと発展

  • 1899(明治32)年9月、「工業製品は性能は基より、使いやすく美しくなければならない」という考えに基づき、東京工業学校工業図案科設置

  • 1901(明治34)年5月10日、東京高等工業学校に改称

  • 1914(大正3)年、東京美術学校図案科東京高等工業学校工業図案科併合、機能美実現に不可欠な工学的要素がうまく教えられず、独立の機運が高まる

​→ 東京藝術大学

  • 1919(大正8)年1月-2月、大学令に伴い大学昇格を決議、日本工業倶楽部も建議書を政府に提出

東京高等工藝学校

  • 1923(大正12)年9月、関東大震災、浅草蔵前の校舎罹災、大学昇格が正式決定していたが実現延期を余儀なくされる

  • 1924(大正13)年3月29日、職工徒弟学校東京高等工藝学校に移管、​東京高等工藝学校附属工芸実修学校設立

  • 1924(大正13)年4月、校舎を蔵前より大岡山へ移転

  • 1929(昭和4)年4月1日、大学昇格、東京工業大学発足、染料化学科・紡織学科・窯業学科・応用化学科・電気化学科・機械工学科・電気工学科・建築学科の8学科と数学教室・物理学教室・物理化学教室・分析化学教室の4教室設置

  • 1949(昭和24)年5月、学制改革に伴い、新制大学・東京工業大学発足、工学部設置

  • 1951(昭和26)年、工芸実修学校東京工業大学に再度移管

創立者

​学校総称

 

学校年表

  • 1870(明治3)年 手島精一(21歳)、藩より学費を借り、渡米。建築学・物理学を学ぶつもりであったが、廃藩置県で送金がなくなる。岩倉遣外使節団の訪米時に通訳を務め、さらにイギリス随行。

 

1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク

大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。

 

  • 1871(明治4)年9月29日(旧暦・8月14日) 伊藤博文(31歳)、工部省に鉄道・造船・鉱山・製鉄・電信灯台・製作・工学・勧工・土木の10寮と測量の1司を配置。山尾庸三工学寮と測量司の長官に。

 

  • 1871(明治4)年9月29日(旧暦・8月14日) 山尾庸三(35歳)、工部省の10寮1司の一等寮として、技術者養成のための工学寮創設。工部権大丞として、初代工学頭に。海外留学制度・国内技能研修制度(修技校)・技術大学制度(工学校)を通し、一元的に官職技術者育成を図る。最終的に工学寮工学校のみの直轄に。

 

  • 1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、南校にて文部省主導による貢進生廃止など制度改革。一時閉鎖、翌10月に再開。外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となったが、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた。

  • 1871(明治4)年11月 山尾庸三(35歳)工学寮教師団の人選を依頼していたエドモンド・モレルが急逝。代わって教師団を人選、旧知のヒュー・マセソンに雇用協力を打診、快諾を得る。グラスゴー大学より工学教師ヘンリー・ダイアーを筆頭とする俊英が選ばれる。1873(明治6)年、教師団が来日。ヘンリー・ダイアーは当初の小学校と呼ばれる複数学校群設立案を退け、工学校(大学校)設置を立案。

1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団

岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。

  • 手島精一、渡米・渡英中に得た産業技術一般に関する豊富な知識と広い視野で、工業知識普及と工業教育振興に関する論説を新聞紙上にしばしば発表。このことが、後に唯一の中等工業教育機関であった製作学教場の最高責任者の職に就くきっかけに。

1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布

日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。​

「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。

  • 1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、南校は中学校へと改組。第一大学区第一番中学校に。外国語による普通科課程を修了する学生が出てくると、次の受け皿が必要に。

1873(明治6)年4月 学制二編追加

「専門学校」について、外国教師によって教授する高尚な学校とした。法学校・医学校・理学校・諸芸学校・鉱山学校・工業学校・農業学校・商業学校・獣医学校等に区分。「大学」と同じく、卒業者には学士の称号を与えることを定める。

「外国語学校」について、外国語学に熟達するのを目的とし、専門学校に進学するもの、あるいは通弁(通訳)を学ぼうとするものを入学させるとした。

  • 1873(明治6)年8月、開成学校、従来の「語学課程」(普通科)に加え、「専門学課程」(専門科)新設。法学・化学・工学・鉱山学・諸芸学の五科が設置される。法学・化学・工学が英語で教授されたが、鉱山学はドイツ語、諸芸学はフランス語で授業が行われ、残留していた独仏語専修の学生に対する移行措置とされた。当2学科について、学生の卒業に伴い順次廃止。

  • 1873(明治6)年11月、工部省工学校、基礎課程・専門課程・実地課程(各2年)の3期6年制学校として発足。ヘンリー・ダイアーが初代都検となり、実質的に校長を務めた。土木・機械・造家(建築)・電信・化学・冶金・鉱山・造船の6学科とする学則・カリキュラムが制定される。

  • 1874(明治7)年5月、開成学校東京開成学校に改称。法学・化学・工学3科よりなる修業年限3年ないし4年の本科に再編される。加えて、修業年限3年の予科が設けられる。

  • 1874(明治7)年、東京開成学校教師兼顧問として日本の工業教育に多大な貢献をしていたワグネル、文部卿に低度工業教育実現の急務を建議。「およそ一国の富を増進するには、主として工業の発達を図るべく、工業の発達を図るにはまず低度の工業教育を盛んにして工業上最も必要な職工長その他の技術者を養成しなければならぬ」。これが受け入れられ、東京開成学校内に工業関係の実務者を簡易速成することを目的とする製作学教場設立。後の東京職工学校(現・東京工業大学)の前身に。

  • 1876(明治9)年 田中不二麿(32歳)、教育令の起草に先立ち、フィラデルフィア万国博覧会の視察をかねて渡米。アメリカ各州の教育行政の調査を実施。高等教育の主力を私立大学が担う自由主義的なアメリカの教育制度に強い関心を抱く。

  • 1876(明治9)年4月 手島精一(27歳)、文部大輔・田中不二麿に随行、独立100年記念の米国フィラデルフィア万国博覧会に出席。ロシア陳列館における出品物と出会う。日本の工業教育方法を模索していた中、大きな衝撃を受け、その後の実習重視の工業教育論を方向づけることに。

  • 1877(明治10)年1月、工学寮廃止。ボアンヴィル設計による、当時世界で最も優れた工業教育施設とされる本館が完成。工学寮工学校は、工部大学校に改称。初代校長に、工作局長・大鳥圭介。イギリスから招聘された技師たちの指導の下、理論研究と実地修練を組み合わせた高度な工学教育を行う。官費生には奉職義務があり、卒業後7年間は官庁で働く取り決めに。

1877(明治10)年4月12日 東京大学創立

東京開成学校本科東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。

法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。

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  • 1878(明治11)年10月 - 1879(明治12)年5月 九鬼隆一(27-28歳)、パリ万国博覧会に派遣される。手島精一と行動を共に。パリ万国博覧会への参加を機に、実業教育、特に中等程度の工業教育の必要性を痛感。​

  • 1878(明治11)年10月 手島精一(29歳)、パリ万国博覧会を視察、工業教育の重要性を認識。行動を共にしていた九鬼隆一も、パリ万国博覧会への参加を機に、実業教育、とくに中等程度の工業教育の必要性をますます痛感。​

  • 1880(明治13)年11月 九鬼隆一(29歳)、内国勧業博覧会の審査副長および議官に。藩閥の力が強力な当時、小藩出身の人物の出世としては珍しいほどの速さであった。文部卿・河野敏鎌が教育行政への関心が薄かったこともあり、「九鬼の文部省」と呼ばれるほどの権勢を振るう。

1881(明治14)年4月12日 東京大学機構改革

東京大学法学部・理学部・文学部三学部東京大学医学部を名実共に統合、4学部を有する総合大学が誕生。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった東京大学法学部・理学部・文学部三学部は、1885(明治17)年にかけて東京大学医学部に隣接する本郷新校舎に移転。

  • 1881(明治14)年5月26日 九鬼隆一(30歳)、中等工業技術教育の必要性を主張し続ける手島精一に、工業教育推進論者として同調。専門学務局長・濵尾新と共に、官立の東京職工学校(現・東京工業大学)創立を支援。

  • 1881(明治14)年9月27日 正木退蔵(36歳)九鬼隆一により日本に呼び戻される。創立間もない東京職工学校の初代校長に。学則改正・煉瓦校舎建設・学生募集に当たった後、化学工芸科実験工場設立。ドイツ人化学者ゴットフリード・ワグネルを招聘。

  • 浅草蔵前の浅草文庫の建物にて、新校舎建設と開学準備が行われる。「煙突のある所蔵前人あり」といわれるほど豊富な人材を排出、関東大震災で校舎消失するまで、蔵前は工業技術教育発展のめざましい活動の舞台となる。

  • 開校当初、前近代の伝統的な徒弟制度の下での技術伝承より、近代的・科学的な技術教育への転換を背景とするさまざな困難に直面。生徒がなかなか集まらず、入学者の中からも退学が続出するなど不振の時期が続く。不振を理由に、農商務省への移管論・不要論・廃止論が絶えず。

  • 1884(明治17)年11月、ワグネルが唯一の外国人教官に就任。陶器玻璃工科主任になると、陶器・ガラス・漆器など、明治以前からの日本の伝統工芸を近代産業へと発展させていくための教育が行われる。

  • 1885(明治18)年、太政官制度廃止により内閣制度発足。工部省が廃止され、逓信省と農商務省に分割・統合。工部大学校文部省に移管される。

1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学

高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。初代総長に渡辺洪基を勅任。

  • 1886(明治19)年4月29日 手島精一(37歳)、閉校の危機に直面していた東京職工学校の維持を図るため、帝国大学附属学校への移管を取りまとめる。

  • 1886(明治19)年、学校維持を図るため、帝国大学附属学校に移管。

  • 1887(明治20)年10月4日、最初の卒業式を挙行した後、再び独立学校として帝国大学より分離。

  • 1890(明治23)年 手島精一(41歳)、病気がちであった正木退蔵に代わり、東京職工学校第2代校長に。生徒たちに評判の悪かった校名を、東京工業学校に改称。学校規則改正、地方入試制度や尋常中学校卒業生のうち工業関係科目で優秀な者の無試験入学制度を設けるなど、高等教育機関としての格付けに尽力。学校運営は安定期に入り、入学者数増加。職工長・工師・教員・企業家養成を中心とする工業教育の指導的機関へと発展。

  • 1890(明治23)年1月、高等商業学校附属商工徒弟講習所東京職工学校(現・東京工業大学)に移管。東京職工学校附属職工徒弟講習所に改称。8月、職工徒弟学校に改称。

​← 一橋大学

  • 1890(明治23)年3月24日、東京工業学校に改称。

  • 1896(明治29)年10月、東京工業学校(現・東京工業大学)に続く2番目の官立工業学校として、大阪工業学校(現・大阪大学工学部)創立。大阪の産業発展に大きく貢献。また、全国で唯一の醸造科を有し、全国の清酒、醤油の醸造業者の子弟が学び、醸造業の近代化に貢献。

  • 1899(明治32)年9月、「工業製品は性能は基より、使いやすく美しくなければならない」という考えに基づき、東京工業学校工業図案科設置。

  • 1901(明治34)年5月10日、東京高等工業学校に改称。

1903(明治36)年3月27日公布 専門学校令

中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。

予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。

  • 1903(明治36)年 渋沢栄一(64歳)東京高等工業学校創立25周年、寄付。また、手島精一校長を功労者として称え、歓待会の発起人に。

  • 1906(明治39)年 松岡壽(45歳)、西洋画地位向上に努めると共に、美術工芸品の向上にも尽力。特許局審査官として、産業としての工芸品の発展にも尽くす。この手腕を東京高等工業学校(現・東京工業大学)手島精一校長に見込まれ、東京高等工業学校(現・東京工業大学)工業図案科科長として迎えられる。

  • 安田禄造東京高等工業学校工業図案科卒業。卒業と同時に、東京高等工業学校工業図案科助教授に。

  • 1909(明治42)年9月、早稲田大学、大学部理工科(機械学科・電気学科)創設。

  • - 1914(大正3)年 安田禄造(- 41歳)東京高等工業学校工業図案科科長・松岡壽の働きかけにより、教員の海外派遣が実現。最初の派遣者に。オーストリア留学。ウィーン工芸学校にて、建築家・デザイナーとしてモダンデザインの道を切り拓いた先駆者の一人・ホフマンに師事。ホフマンの現実的で実用的な様式を追及する姿勢が、東京高等工業学校工業図案科が目指す方向と合致。その後、西欧各地を巡る。

  • 1914(大正3)年、東京高等工業学校工業図案科東京美術学校図案科に併合、廃止に。在学生が東京美術学校に転入。しかし、東京美術学校では機能美実現に不可欠な工学的要素がうまく教えられず。また日本美術に重きが置かれ、合理的な西洋美術が軽んじられる当時の風潮も重なり、工業図案科が目指す美麗なる製品のための産業工芸の必要性がすぐには理解されず。

​→ 東京藝術大学

  • 松岡壽東京高等工業学校工業図案科科長として、安田禄造らと共に廃止反対。工芸図案に関する高等教育の必要性を訴え続ける。東京美術学校に移った関係者の不満も次第に高まり、分離独立の機運が高まる。

  • 1914(大正3)年 安田禄造(41歳)、オーストリア留学より帰国。東京高等工業学校工業図案科教授昇進。しかし、間も無く東京美術学校図案科に併合されることに。一人、東京高等工業学校に残る。

  • 1916(大正5)年9月22日 手島精一(67歳)東京高等工業学校校長辞任。名誉教授の称号を授けられる。校長として25年の長きにわたり、産業の近代化に沿った学科設備の拡充と教育レベルの引き上げを行い、日本各地の工業学校指導者・産業界のリーダーを数多く輩出。

1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行 大学令

原敬内閣の高等教育拡張政策に基づき、法制度上における帝国大学と別種の「大学」を設置。専門学校の大学への昇華が認可される。大学の性格を、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養二留意スヘキモノトス」と規定。

その構成に関し、数個の学部を置くのを常例とするとし、設置する学部として法学・医学・工学・文学・理学・農学・経済学および商学の8学部をあげる。特別の必要のある場合には1個の学部を置くことができるとし、単科大学の成立も認める。

  • 1919(大正8)年1月-2月、蔵前工業会臨時総会で大学昇格を決議。翌2月、日本工業倶楽部も建議書を政府に提出。

  • 1921(大正10)年12月9日 松岡壽(60歳)東京高等工藝学校設立。初代校長に。修業年限3年の本科に工芸図案科・工芸彫刻部・金属工芸科・木材工芸科・印刷工芸科を設置。

東京高等工藝学校

  • 1923(大正12)年9月、関東大震災、浅草蔵前の校舎が罹災。大学昇格が正式決定していたが、実現延期を余儀なくされる。

  • 1924(大正13)年4月、校舎を蔵前より大岡山へ移転。

  • 1929(昭和4)年4月1日、大学昇格、東京工業大学発足。染料化学科・紡織学科・窯業学科・応用化学科・電気化学科・機械工学科・電気工学科・建築学科の8学科と数学教室・物理学教室・物理化学教室・分析化学教室の4教室設置。

  • 1942(昭和17)年5月、附属高等工業教員養成所設置。

1946(昭和21)年 - 学制改革

第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づいて日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、東京帝国大学総長・南原繁らにより推進される。

複線型教育から単線型教育「6・3・3・4制」への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを廃止。教育機会の均等が図られる。

戦前の旧制大学・旧制高等学校・師範学校・高等師範学校・大学予科・旧制専門学校が4年制の新制大学として再編される。新制国立大学について、文部省が総合的な実施計画を立案、1949(昭和24)年施行の国立学校設置法に基づき設置。

1949(昭和24)年5月31日公布・施工 国立学校設置法

文部省管轄、全国に69の新制国立大学が発足。

  • 1949(昭和24)年5月、学制改革に伴い、新制大学・東京工業大学発足。工学部設置。

​→ 千葉大学工学部

  • 1951(昭和26)年、工芸実修学校東京工業大学に再度移管。東京工業大学附属科学技術高等学校の前身に。

 

東京工業大学年表

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