専修大学
田尻稲次郎
たじりいなじろう
1850(嘉永3)年6月29日/8月6日 - 1923(大正12)年8月15日
1850(嘉永3)年6月29日/8月6日
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田尻稲次郎、薩摩藩京都上屋敷に薩摩藩士の三男として生まれる。
1866(慶応2)年
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田尻稲次郎(12-13歳)、薩摩藩「開成所」にて洋学を学ぶ。長崎遊学。
1869(明治2)年
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田尻稲次郎(15-16歳)、「慶応義塾」入塾。
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田尻稲次郎(15-17歳)、「開成学校」入学、英学を学ぶ。「海軍兵学寮」入寮、兵学を学ぶ。修業中、鹿児島藩貢進生に。
1870(明治3)年12月
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田尻稲次郎(17歳)、刑部省国法民法課勤学の資格を得て、渡米留学。
1871(明治4)年 - 1879(明治12)年
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田尻稲次郎(17-26歳)、「ニューブランズウィックの大学予備校」入学。後に「ハートフォード高等学校」に転じる。
1873(明治6)年
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田尻稲次郎(19-20歳)、留学生一斉帰朝命令の際、「ハートフォード高等学校」校長はじめ篤志の援助で勉学続行。「エール大学」入学。経済学・財政学を学ぶ。
1875(明治8)年
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田尻稲次郎(21-22歳)、相馬永胤、目賀田種太郎、津田純一、鳩山和夫らと親交。法学徒が集うクラブ・研究会で、討論会などを開き演説の練習や法律語彙の翻訳を行う「日本法律会社」結成。「専修学校」の土台に。
1878(明治11)年6月
1879(明治12)年
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田尻稲次郎(25-26歳)、日本に帰国。相馬永胤と目賀田種太郎が共同で東京市京橋区(現在の東京都中央区)に法律事務所を開設。事務所の2階に、やはり米国から帰ったばかりの駒井重格と共に寄宿。4人で起居を共にし、学校設立の準備に動き出す。
1879(明治12)年
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田尻稲次郎(25-26歳)、帰国に際し、駒井重格より新調した背広を贈られ、故郷に錦を飾る。
1879(明治12)年夏
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田尻稲次郎(25-26歳)、「東京大学」で理財学(経済学)を講じる。後に大蔵省で部下となる阪谷芳郎、添田寿一などを教える。
1880(明治13)年9月14日
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田尻稲次郎(30歳)、「慶應義塾夜間法律科」を独立させる形で、「三叉学舎法律経済科」、「東京攻法館法律科」の3社を統合、「専修学校」創立。相馬永胤、目賀田種太郎、駒井重格と共に創立メンバーに。経済学を講じる。
1880(明治13)年
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田尻稲次郎(29-30歳)、大蔵省入省。国債局長、就任。
1888(明治21)年
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田尻稲次郎(37-38歳)、日本最初の法学博士に。
1891(明治24)年
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田尻稲次郎(40-41歳)、大蔵省銀行局長、主税局長に。
1891(明治24)年
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田尻稲次郎(40-41歳)、貴族院議員に。
1892(明治25)年
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田尻稲次郎(41-42歳)、大蔵次官になるも、いったん退く。
1898(明治31)年
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田尻稲次郎(41-42歳)、再び、大蔵次官に。
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田尻稲次郎、大蔵総務長官、会計検査院院長など要職歴任。大蔵省時代、日露戦争時での戦費調達、債務処理に功績。
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田尻稲次郎、駒井重格と共ににフィリピーヌ・ルロア=ボリュー『財政学概論』を翻訳・祖述。フランス財政学の導入、近代財政制度を創設、財務行政および人材育成に貢献。
1906(明治39)年2月11日
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田尻稲次郎(55歳)、蓮沼門三が「東京府師範学校」時代に始めた「美化運動」を起源として設立した社会教育団体「修養団」の初代団長に。
1918(大正7)年
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田尻稲次郎(67-68歳)、東京市長に。
1922(大正11)年
1923(大正12)年8月15日
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田尻稲次郎(73歳)、死去。享年、73歳。
