専修大学

目賀田種太郎

めがたたねたろう

1853(嘉永6)年7月21日/8月25日 - 1926(大正15)年9月10日

1853(嘉永6)年7月21日/8月25日 

  • 目賀田種太郎、江戸本所太平町に幕臣の家の子として生まれる。

1869(明治2)年

  • 目賀田種太郎(16歳)、「静岡学問所」英学世話掛から英語五等教授に。

1870(明治3)年4月

  • 目賀田種太郎(16歳)、藩命により貢進生として上京、「大学南校」入学。

1870(明治3)年8月

  • 目賀田種太郎(16-17歳)、「大学南校」第1回国費留学生に。アメリカ留学を願い出る。

1872(明治5)年9月

  • 目賀田種太郎(19歳)、渡米、「ハーバード法律学校(現在のハーバード大学)」入学。入学規定であった「キリスト教徒であること」に異を述べ、入学許可を得る。

  • 目賀田種太郎、渡米中、伊沢修二と出会う。日本の音楽唱歌を欧米の音楽と同化させようと、共に研究。「東京音楽学校」創立に尽力。

1875(明治8)年

  • 目賀田種太郎(21-22歳)、文部省の留学生監督となり、「東京開成学校」の生徒9人(鳩山和夫、小村寿太郎、菊池武夫、斎藤修一郎、長谷川芳之助、松井直吉、原口要、平井晴二郎、南部球吾)を引き連れて再渡米。後に政財界・教育界で活躍する俊英揃いであった。自身も法律を学ぶ。

1875(明治8)年

  • 目賀田種太郎(21-22歳)、相馬永胤田尻稲次郎、津田純一、鳩山和夫らと親交。法学徒が集うクラブ・研究会で、討論会などを開き演説の練習や法律語彙の翻訳を行う「日本法律会社」結成。「専修学校」の土台に。

1877(明治10)年7月

  • 目賀田種太郎(23-24歳)、「ハーバード法律学校」卒業。帰国後、文部省に勤務。

1878(明治11)年

  • 目賀田種太郎(24-25歳)、伊沢修二と連名にて、日本の音楽教育の意見書を文部大臣に提出。米国で師事したボストン音楽学校創立者・ルーサー・ホワイティング・メーソンに働きかける。後にメーソンは来日、日本での音楽教育の発展に貢献。

1879(明治12)年

  • 目賀田種太郎(25-26歳)、日本に帰国。相馬永胤と共同で東京市京橋区(現在の東京都中央区)に法律事務所を開設。事務所の2階に、やはり米国から帰ったばかりの田尻稲次郎駒井重格が寄宿。4人で起居を共にし、学校設立の準備に動き出す。

1880(明治13)年6月

  • 目賀田種太郎(26歳)、司法省附属代言人の最初の3人の一人。東京代言人組合(現在の東京弁護士会)会長に。

1880(明治13)年9月14日

1881(明治14)年3月

  • 目賀田種太郎(27歳)、判事に。

1883(明治16)年

  • 目賀田種太郎(29-30歳)、大蔵少書記官に。

1886(明治19)年

  • 目賀田種太郎(32-33歳)、主税局監査課長に。

1887(明治20)年

  • 目賀田種太郎(33-34歳)、主税局調査課長兼監査課長に。

1891(明治24)年

  • 目賀田種太郎(37-38歳)、横浜税関長に。

1894(明治27)年

  • 目賀田種太郎(40-41歳)、貴族院勅選議員に。

1907(明治40)年

  • 目賀田種太郎(53-54歳)、韓国統監府財政監査長官に。男爵に叙される。

1920(大正9)年

  • 目賀田種太郎(66-67歳)、国際連盟第1回総会にて、石井菊次郎、林権助と共に日本代表団の1人として大使を務める。

1923(大正12)年

  • 目賀田種太郎(69-70歳)、枢密顧問官に。

1926(大正15)年9月10日

  • 目賀田種太郎(73歳)、死去。享年、73歳。