専修大学

相馬永胤

そうまながたね

1850(嘉永3)年11月22日/12月25日 - 1924(大正13)年1月26日

1850(嘉永3)年11月22日/12月25日

  • 相馬永胤、近江国犬上郡彦根尾末町に彦根藩士の家の子として生まれる。

  • 相馬永胤、戊辰戦争にて官軍として奮闘。

明治維新後

  • 相馬永胤、安井息軒に学ぶ。

1870(明治3)年

  • 相馬永胤(19-20歳)、彦根藩費留学生として渡米。ミシガン州農学校で学ぶ。

1873(明治6)年

  • 相馬永胤(22-23歳)、文部省より一斉帰国命令、やむなく一時帰国。

1875(明治8)年

  • 相馬永胤(24-25歳)、再渡米、「コロンビア法律学校(現在のコロンビア大学ロー・スクール)」入学。同期の日本人留学生に、徳川御三卿清水家当主・徳川篤守、鳩山和夫ほか、文部省の留学生監督に目賀田種太郎

  • 相馬永胤、図書館で判例を精読、模擬裁判にて米人学生に伍して活躍。

1875(明治8)年

  • 相馬永胤(24歳)、法学徒が集うクラブ・研究会で、討論会などを開き演説の練習や法律語彙の翻訳を行う「日本法律会社」結成。「専修学校」の土台に。1月21日の日記に「われわれが帰国後、われわれの法律上の計画を実行しようというのが、わが法律クラブの目的である」と記す。​

  • 相馬永胤、「エール大学大学院」入学、経済学を学ぶ。田尻稲次郎と出会う。内務省よりアメリカの商業事情調査に派遣されていた神鞭知常、「ラトガース大学」で経済学を学んでいた駒井重格と出会う。​

1879(明治12)年

  • 相馬永胤(28-29歳)、日本に帰国。目賀田種太郎と共同で東京市京橋区(現在の東京都中央区)に法律事務所を開設。事務所の2階に、やはり米国から帰ったばかりの田尻稲次郎駒井重格が寄宿。4人で起居を共にし、学校設立の準備に動き出す。

1879(明治12)年12月

  • 相馬永胤(29歳)、福澤諭吉と親交。法律、経済の知識を日本語で学べる場が求められており、「慶応義塾」に「慶應義塾夜間法律科」設立。初代講師に。

1880(明治13)年1月

  • 相馬永胤(29歳)、渡米中に箕作秋坪の子・箕作佳吉らと共に学術クラブ「興学社」を起こした縁より、箕作秋坪の協力を得る。私塾「三叉学舎」に法律経済科を設立。講師に。

1880(明治13)年3月

1880(明治13)年6月

  • 相馬永胤(29歳)、司法省附属代言人の最初の3人の一人に。

1880(明治13)年9月14日

  • 法律学を本格的に教える教育機関は、「東京大学法学部」、「司法省法学校」など極少数であった。「東京大学法学部」が英語、「司法省法学校」が仏語で教授していたのに対し、「専修学校法律科」は日本語で英米法を教授する唯一の本格的法律学に。多くの学生を集める。

  • 相馬永胤、横浜正金銀行取締役、横浜正金銀行内外法律顧問を歴任。

1890(明治23)年

  • 相馬永胤(39-40歳)、第1回衆議院議員選挙に郷里の滋賀県から出馬、当選。

1913(大正2)年

  • 相馬永胤(62-63歳)、「専修学校」を「私立専修大学」と改称。初代学長に。

1922(大正11)年

  • 相馬永胤(71-72歳)、文部省学制頒布50年記念祝典にて、「専修学校」創立メンバーの田尻稲次郎と共に「教育功労者」として表彰される。

1923(大正12)年

  • 大学令により、大学昇格。「専修大学」設立。

1924(大正13)年1月26日

  • 相馬永胤(73歳)、死去。享年、73歳。