学習院大学・学習院女子大学

谷干城

たにたてき

1837(天保8)年2月12日/3月18日 - 1911(明治44)年5月13日

1837(天保8)年2月12日/3月18日

  • 谷干城、土佐国高岡郡窪川(現在の高知県高岡郡四万十町)に儒学者・谷景井(萬七)の四男として生まれる。後に、父・谷景井(萬七)が土佐藩の上士(小姓組格・武道師範)として取り立てられる。

1859(安政6)年

  • 谷干城(21-22歳)、江戸へ出て、安井息軒に儒学を、安積艮斎に朱子学を、若山勿堂に山鹿流軍学を学ぶ。

1862(文久2)年

  • 谷干城(24-25歳)、土佐藩校「致道館」で史学助教授に。

  • 谷干城、武市瑞山(半平太)と知り合い、尊王攘夷に傾倒。藩政を主導していた吉田東洋と対外方針を巡り討論。吉田東洋が暗殺された時は、彼との対立関係から周囲に犯人だと疑われる。

  • 谷干城、吉田東洋暗殺後、武市瑞山(半平太)と共に、土佐藩主山内豊範の側近に引き立てられる。京都へ上洛、諸藩と交流し、攘夷実現に向け尽力。

1864(元治元)年

  • 谷干城(26-27歳)、武市瑞山(半平太)失脚と共に、左遷。

1865(慶応元)年

  • 谷干城(27-28歳)、土佐藩校「致道館」助教授に復職。

1867(慶応3)年

  • 谷干城(29-30歳)、長崎視察の際、吉田東洋の方針を継いだ後藤象二郎や坂本龍馬と交わる。攘夷が不可能であることを諭され、また上海で西洋の軍事力を目の当たりにし、実感。帰国後、後藤象二郎の賛同者に変化、開国・倒幕論者となっていく。

1867(慶応3)年5月21日

  • 谷干城(30歳)、京都の小松清廉邸にて、中岡慎太郎の仲介により、板垣退助や毛利吉盛と共に薩摩藩の西郷隆盛や吉井友実と会い、薩土密約を結ぶ。武力討幕を目指す。

  • 谷干城、板垣退助・後藤象二郎が薩土盟約を締結。大政奉還を趣旨とする穏健な倒幕を目指していたため、目標と食い違う。山内容堂に重用された後藤象二郎が土佐藩を動かしていく状況に不満を募らせる。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年

​戊辰戦争

1868(慶応4/明治元)年

  • 谷干城(30-31歳)、戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦い。板垣退助と共に藩兵を率い、出動。迅衝隊の小軍監として、北関東・会津戦争で活躍。3月、新選組から改名した甲陽鎮撫隊を甲州勝沼の戦いで破る。江戸開城で待機。4月、北上、日光山で旧幕府軍と対峙、今市の戦い。5月、土佐へ戻る。戦線へ復帰。会津へ向かう。8月、会津城籠城戦に加わる。11月、土佐へ凱旋。戦功として家禄400石に加増、仕置役に。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年

  • 山川浩(22-24歳)、​戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いを経て江戸、会津へと転戦。若年寄として戦費調達や藩兵の西洋化などに尽力。日光口の戦い、土佐藩・谷干城が率いる部隊を相手に巧妙に戦うも敗北、会津西街道の藤原まで撤退。藤原では追撃してくる敵軍を敗走、敵軍は中村半次郎が来るまで会津に突入することが出来なかった。会津戦争、既に包囲された会津若松城に入城できず。会津地方の伝統芸能・彼岸獅子を先頭で舞わせながら入城するという離れ業を演じる。籠城中は防衛総督として勇戦するも、落城。

1869(明治2)年

  • 谷干城(31-32歳)、参政に。

1870(明治3)年

  • 谷干城(32-33歳)、少参事に。高知にて、藩政改革に尽力。東京の後藤象二郎と板垣退助による積極財政と浪費により、藩財政が傾く。これに反発、片岡健吉と共に費用削減を遂行、これが怒りを買い、藩政から排除される。しかし、浪費で財政が傾き、反対派から信望を集める結果に。

1871(明治4)年4月

  • 谷干城(34歳)、少参事に復帰。藩兵の軍制改革に尽力。

1872(明治5)年7月

  • 谷干城(35歳)、新政府に出仕、兵部権大丞に。

1873(明治6)年

  • 谷干城(35-36歳)、陸軍裁判長に転任。陸軍少将に。

1873(明治6)年

  • 山川浩(27-28歳)、戊辰戦争での活躍を識る谷干城の推薦により、陸軍に八等出仕。陸軍少佐として熊本鎮台に移る。

1873(明治6)年10月24日-10月25日

明治六年政変、征韓論に端を発した一大政変。政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞す。発端は、西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対し、その旨を伝える使節を幾度か派遣。また朝鮮においては、興宣大院君が政権を掌握、儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始め、日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるように。西郷隆盛は交渉よりも武力行使を前提に、朝鮮使節派遣を目論む。これに賛同したのが、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋、大隈重信大木喬任ら。反対したのが大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、黒田清隆ら。「岩倉遣欧使節団」派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、留守政府を預かっていた西郷隆盛らが急激な改革を起こし、混乱していたことが大久保利通らの態度を硬化させた。また、日本には朝鮮や清、ひいてはロシアと交戦できるだけの国力が備わっていないという戦略的判断、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという国際的立場より猛烈に反対、費用の問題なども絡め征韓の不利を説き、延期を訴える。

 閣議において、大隈重信、大木喬任が反対派にまわり、採決は同数に。しかし、賛成意見が通らない場合は辞任するという西郷隆盛の言葉に恐怖した議長・三条実美は即時派遣を決定。これに対し、反対派も辞表提出、辞意を伝える。明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、太政大臣・三条実美が過度のストレスにより倒れ、意識不明となる。代わって岩倉具視が太政大臣代理に。岩倉具視は派遣決定と派遣延期の両論を上奏。明治天皇は派遣延期の意見を採用、朝鮮使節派遣は無期延期の幻となった。

 西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣は辞表を提出。受理され、賛成派参議5名は下野。桐野利秋ら西郷隆盛に近く、征韓論を支持する官僚・軍人も辞職。更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷隆盛を咎めず、逆に西郷隆盛に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣退助・後藤象二郎に近い官僚・軍人も辞職。この政変が、後の士族反乱や自由民権運動の発端となる。

1873(明治6)年

  • 板垣退助(35-36歳)、明治六年政変、書契問題に端を発する度重なる朝鮮国の無礼に、世論が沸騰。率先して征韓論を主張するも、欧米視察から帰国した岩倉具視ら穏健派によって閣議決定を反故にされる(征韓論争)。これに激憤、西郷隆盛らと共に下野。世論もこれを圧倒的に支持、倣って職を辞する官僚が600名あまりに及ぶ。自身と土佐派官僚が土佐で自由民権を唱える契機となる。

1873(明治6)年

  • 谷干城(35-36歳)、熊本鎮台司令長官に。徴兵令を巡る対応が人事に絡み、反対派の桐野利秋が辞任。賛成派であったため、山縣有朋に任じられたという事情が。軍の近代化に取り組み、部隊にフランス式訓練を施す中、明治六年政変で板垣退助が下野したことで高知出身の軍人も多数下野。鎮台に出火騒ぎや部隊暴動が起こり、動揺をもたらした板垣退助との確執を強めていく。

1874(明治7)年2月

  • 谷干城(36-37歳)、佐賀の乱。岩村高俊県令の護衛として派遣した部下の山川浩率いる第11大隊が、佐賀城で不平士族に包囲。大隊約300人のうち半分近くを失う痛手を負う。大阪・東京鎮台からの増援により、乱を鎮圧。

1874(明治7)年5月-12月

  • 谷干城(37歳)、台湾出兵、陸軍中将・西郷従道の下、海軍少将・赤松則良と共に参戦。熊本鎮台司令長官から、参軍に転任。出兵後は政府の方針に不満を、抱き高知に逼塞。同郷の佐々木高行から帰京を促される。

1876(明治9)年10月-11月

  • 谷干城(39歳)、神風連の乱、不平士族に殺害された種田政明の後任として、再び熊本鎮台司令長官に。樺山資紀が参謀長、児玉源太郎・川上操六が参謀として脇を固める。

1877(明治10)年

  • 谷干城(39-40歳)、西南戦争、52日にわたって薩軍の攻撃から熊本城を死守。政府軍の勝利に貢献。薩軍からは反政府派の1人とみなされ、樺山資紀と共に寝返りを期待されるも、薩摩軍との対決を選び籠城。2月19日、熊本城から出火、天守閣を始め主要施設を失い、兵糧が欠乏。22日、開始された薩軍の攻撃を必死に耐えしのぐ中、銃撃で樺山資紀が負傷。与倉知実も戦死。苦戦になったが、侵入を防ぐ。薩摩軍は翌23日にも攻撃、失敗したため強襲を諦める。24日から包囲に切り替え。包囲中、鎮台兵と薩摩軍の攻防は続く。3月、北から救援軍が迫り、海路からも別働隊(衝背軍)が南の八代に上陸。熊本城に近付く。4月8日、奥保鞏を隊長とする外部との連絡部隊を城外へ放ち、衝背軍との合流に成功。11日、狙撃され重傷を負う。14日、旧知の山川が衝背軍の一部隊を率いて熊本城へ入城、包囲は解放。籠城後も休む暇はなく山縣有朋の指揮下で九州を転戦。19日、鎮台兵は城東会戦で薩軍と戦い、大分方面へ転戦、野村忍介の部隊とも激戦を展開。9月、城山の戦いで終止符を打つ。西南戦争の勝利により、名声が高まる。政府や明治天皇の信頼を獲得、軍部からも一目置かれるように。

1878(明治11)年

  • 谷干城(40-41歳)、高知で自由民権運動が過激化することを憂う。急進的な民権派の政治団体「立志社」に対抗、佐々木高行と共に穏健な政治運動を標榜する中立社を立ち上げ。立志社の勢いに太刀打ち出来ず、廃社。​

1878(明治11)年11月

  • 谷干城(41歳)、西南戦争の功績により、陸軍中将に。「陸軍士官学校」校長、「陸軍戸山学校」校長に。

1881(明治14)年3月-6月

  • 谷干城(43-44歳)、台湾出兵で戦死・病死した将兵の遺体を一部の地方官が乱暴に取り扱った事実を政府・陸軍首脳部が放置していたと知り、抗議の辞任。明治天皇は意見を評価、辞任を差し止めようとする。また、佐々木高行通じ、帰郷を延ばし忠節を尽くすように伝言。陸軍中将を慰留する代わりに、「陸軍士官学校」校長と「陸軍戸山学校」校長を免職するまで持ち越される。

1881(明治14)年

明治十四年の政変、自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの「慶応義塾」門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。政府から追い出され下野した福澤諭吉「慶応義塾」門下生らは『時事新報』を立ち上げ、実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも「東京専門学校」を早稲田に開設。

1882(明治15)年

  • 谷干城(44-45歳)、開拓使官有物払下げ事件、政府に動揺が拡がる。曾我祐準・鳥尾小弥太・三浦梧楼ら3人の軍人と四将軍派を結成。佐々木高行と共に、払下げ反対を表明。9月、連名で国会開設の建白書を提出。10月、佐々木高行と同志の元田永孚・土方久元らと結託、中正党を結成。現役軍人でありながら、政治に大きく関与する。この姿勢を山縣有朋に危険視され、明治十四年の政変で大隈重信が政府から追放され事態が収拾されると、佐々木高行が政府に取り込まれ中正党の運動も不明瞭に。山縣有朋が軍人の政治関与を禁じた軍人勅諭を制定、四将軍派の活動は抑えられる。

1884(明治17)年5月

  • 谷干城(47歳)、非職でありながら度々政府から復職を望まれ、「学習院」第3代院長として復帰。かねてから華族の教育を構想していた伊藤博文に改革を依頼される。皇室の藩屛になることを目指した華族の子弟教育を推進、軍人養成に力を注ぐ。また将来の議会政治にも目を向け、華族が天皇に忠誠を尽くし、独立した勢力として議会で公平に政治活動していく構想も考え、軍人だけでなく政治、外交にも役立つ多様な人材育成を目指す。

1884(明治17)年7月

  • 谷干城(47歳)、華族有志青年会、設立多くの華族を引き付け、議会に備えていく。これらの功績が認められ、華族令が制定されると子爵に叙せられる。

1885(明治18)年

  • 谷干城(47-48歳)、内閣制度が発足、第1次伊藤博文内閣の初代農務省大臣に。四将軍派は陸軍が薩長藩閥の主流である状態に反発、軍の人事や組織案などに口出しして軍で活動を再開、山縣有朋と大山巌、桂太郎、川上操六ら主流派と対立、軍事方針とそれに伴う外交を巡り衝突した。農商務相就任は伊藤博文が四将軍派の関心を得るための人事であり、明治天皇も閣僚登用を望んだ事情から成り立っていた。

1886(明治19)年

  • 谷干城(48-49歳)、伊藤博文と井上馨ら政治家は、主流派の軍拡と清への強硬姿勢に反対。三浦梧楼の軍縮案に傾いていた。しかし、陸軍紛議と呼ばれる対立の結果、四将軍派は軍から追われる。後に、支持基盤だった軍事研究団体・月曜会も解散。左遷・罷免された三浦梧楼・曾我祐準と違い、報復人事は無かったが、陸軍の政治関与に否定的だった児玉源太郎が「陸軍大学校」校長。教育を通じ、四将軍派の影響力は軍から排除される。以後、政治へ本格的に関わっていくように。

1886(明治19)年3月 - 1887(明治20)年6月

  • 谷干城(48-50歳)、欧州視察。エジプトでアフマド・オラービーと出会い、外債をきっかけに列強に侵略された惨状を日本の将来に重ね不安を覚える。スイス・ギリシャにて、国民政治が行き届き、自治が確立され列強の侵略を許さない姿勢に理想を見出す。西洋文明の過剰導入による借金で国が疲弊、それを列強に付け入れられることを危惧、日本の欧化主義に否定的になり、国粋主義者に変貌。閣僚にも拘らず、政府批判を考え始める。オーストリアでローレンツ・フォン・シュタインの講義を受けたことで自作農保護の農本思想を採り入れる。議会を通じて国民の自治を重視する政治家に変わっていく。

1887(明治20)年7月3日

  • 谷干城(50歳)、帰国後、閣内の国権派として伊藤内閣の欧化政策を批判、「条約改正に関する意見書」を内閣へ提出。条約改正問題を取り上げ、改正案に外国人裁判官任用が記されていることに反対。議会開設にも触れ、言論の自由を主張。この行為は政府内で大問題となり、井上馨と口論、伊藤博文も反論。谷も佐々木高行・元田永孚ら同志と結託、改正反対運動を展開。意見が内閣に受け入れられず、閣僚辞任。井上馨も反対運動の拡大と条約改正失敗により、辞任。改正は阻止される。

1887(明治20)年9月

  • 谷干城(50歳)、一連の騒動で民権派による大同団結運動が盛り上がり、民衆から英雄に祭り上げられる。これは本意ではなく、高知へ帰郷すると政界復帰を拒む。

1888(明治21)年

  • 谷干城(50-51歳)、陸羯南主宰の新聞『東京電報』、援助のため上京。

1888(明治21)年7月

  • 谷干城(51歳)、明治天皇の要請で、「学習院」御用掛に。高知へ戻り、短期間で辞職。

1889(明治22)年2月

  • 谷干城(51歳)、因縁のある後藤象二郎が黒田内閣に引き抜かれ、大同団結運動分裂。

1889(明治22)年8月-10月

  • 谷干城(52歳)、三浦梧楼・浅野長勲ら共に、日本倶楽部を設立。黒田内閣の外相・大隈重信の条約改正案にも反対する形で政治結社化を目論むも、改正の無期限延期による問題棚上げと内部対立より、日本倶楽部解散。政治結社化、失敗。

1889(明治22)年

  • 谷干城(51-52歳)、予備役に編入、軍人退役。

1890(明治23)年

  • 谷干城(52-53歳)、貴族院議員選挙に当選、政界復帰。帝国議会が開会を迎えると、「学習院」で掲げた皇室の藩屛たらんとし、政党・政府から自立して懇話会に属す。地租増徴に反対するなど、独自の政治運動を展開。明治天皇や元田永孚からは枢密院か宮中入りを望まれたが、それを断り政界から皇室を守ることを決断した上での貴族院入りとなる。

  • 谷干城、国粋主義、農本主義的立場から、藩閥とも板垣退助ら民権派とも異なる保守的な中正主義で、土佐派の重鎮として重きをなす。政治思想は天皇に忠誠を尽くす皇室崇敬、衆議院政党と政府からの独立および監視、政党・政府関係なく政策を吟味し国民の利益になる場合は賛成、そうでない内容では反対する是々非々主義、国民の利益を重視する国家主義を唱える。この思想は貴族院のほとんどの有力者が掲げ、貴族院全体が目指す普遍的な目標となり、同じく政界入りした曾我と、主張が一致する三曜会の領袖近衛篤麿と組んで政争に立ち向かう。

1890(明治23)年

1891(明治24)年

  • 近衛篤麿(27-28歳)、同志会を三曜会と改称。同じく五摂家出身の二条基弘らと共に三曜会に属し、谷干城らが結成した懇話会と共同歩調を取る。後に三曜会が衰退すると朝日倶楽部と合併、同じく活動が低調になった懇話会とも合併、新たに結成した土曜会に移り活動を続ける。

1911(明治44)年5月13日

  • 谷干城(75歳)、死去。享年、75歳。