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谷干城

谷干城

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年表

谷干城

たにたてき

1837(天保8)年3月18日(旧暦・2月12日) - 1911(明治44)年5月13日

陸軍軍人、陸軍士官学校校長、学習院第2代院長、初代農務省大臣、貴族院議員

  • 1837(天保8)年 谷干城(1歳)、土佐国高岡郡窪川(現・高知県高岡郡四万十町)に儒学者・谷景井(萬七)の四男として生まれる。後に、父・谷景井(萬七)が土佐藩の上士(小姓組格・武道師範)として取り立てられる。

  • 板垣退助、上士と下士の身分が確立されている土佐藩にあって、谷干城や佐々木高行と同じく、下士に対し寛大だった。

  • 1859(安政6)年 谷干城(23歳)、江戸へ出て、安井息軒に儒学を、安積艮斎に朱子学を、若山勿堂に山鹿流軍学を学ぶ。

  • 1862(文久2)年 谷干城(26歳)、土佐藩校致道館で史学助教授に。

  • 谷干城、武市瑞山(半平太)と知り合い、尊王攘夷に傾倒。藩政を主導していた吉田東洋と対外方針を巡り討論。吉田東洋が暗殺された時は、彼との対立関係から周囲に犯人だと疑われる。

  • 谷干城、吉田東洋暗殺後、武市瑞山(半平太)と共に、土佐藩主山内豊範の側近に引き立てられる。京都へ上洛、諸藩と交流し、攘夷実現に向け尽力。

  • 1864(文久4/元治元)年 谷干城(28歳)、武市瑞山(半平太)失脚と共に、左遷。

  • 1865(元治2/慶応元)年 谷干城(29歳)、土佐藩校・致道館助教授に復職。

  • 1867(慶応3)年 谷干城(31歳)、長崎視察の際、吉田東洋の方針を継いだ後藤象二郎や坂本龍馬と交わる。攘夷が不可能であることを諭され、また上海で西洋の軍事力を目の当たりにし、実感。帰国後、後藤象二郎の賛同者に変化、開国・倒幕論者となっていく。

  • 1867(慶応3)年5月 大久保利通(38歳)、雄藩会議の開催を小松清廉や西郷隆盛と計画。四侯会議を開催。しかし、四侯会議が徳川慶喜によって頓挫させられたため、公武合体路線を改め、武力倒幕路線を指向することに。

  • 1867(慶応3)年5月21日 谷干城(31歳)、京都の小松清廉邸にて、中岡慎太郎の仲介により、板垣退助や毛利吉盛と共に薩摩藩の西郷隆盛や吉井友実と会い、薩土密約を結ぶ。武力討幕を目指す。

  • 1867(慶応3)年5月21日 板垣退助(31歳)、薩土密約、京都の小松清廉邸にて、中岡慎太郎の仲介により、土佐藩の谷干城・毛利恭助らと共に薩摩藩の西郷吉之助らと武力討幕を議す。「戦となれば、藩論の如何にかかわらず、必ず土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流する」と決意を語る。

  • 谷干城、板垣退助・後藤象二郎が薩土盟約を締結。大政奉還を趣旨とする穏健な倒幕を目指していたため、目標と食い違う。山内容堂に重用された後藤象二郎が土佐藩を動かしていく状況に不満を募らせる。

  • 1867(慶応3)年9月8日 大久保利通(38歳)、三藩盟約、武力による新政府樹立を目指す小松清廉・西郷隆盛と共に長州藩の柏村数馬に武力政変計画を打ち明ける。それを機に、京都において薩摩藩が大久保利通と西郷隆盛、長州藩の広沢真臣・品川弥二郎、広島藩の辻維岳が会し、出兵協定を結ぶ。

  • 1867(慶応3)年10月14日-10月15日 大久保利通(38歳)、正親町三条実愛より、倒幕の密勅の詔書を引き出す。小松清廉・西郷隆盛と共に署名、倒幕実行の直前まで持ち込むことに成功。しかし、翌日に土佐藩の建白を受けていた将軍・徳川慶喜が大政奉還を果たす。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し

官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。

  • 1868(慶応4/明治元)年 谷干城(32歳)、戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦い。板垣退助と共に藩兵を率い、出動。迅衝隊の小軍監として、北関東・会津戦争で活躍。3月、新選組から改名した甲陽鎮撫隊を甲州勝沼の戦いで破る。江戸開城で待機。4月、北上、日光山で旧幕府軍と対峙、今市の戦い。5月、土佐へ戻る。戦線へ復帰。会津へ向かう。8月、会津城籠城戦に加わる。11月、土佐へ凱旋。戦功として家禄400石に加増、仕置役に。

  • 1868(慶応4/明治元)年 板垣退助(32歳)、土佐勤王党の流れをくむ隊士を集めた迅衝隊総督として、谷干城と共に藩兵を率いる。東山道先鋒総督府の参謀として従軍。

  • 1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 山川浩(24-25歳)、​戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いを経て江戸、会津へと転戦。若年寄として戦費調達や藩兵の西洋化などに尽力。日光口の戦い、土佐藩・谷干城が率いる部隊を相手に巧妙に戦うも敗北、会津西街道の藤原まで撤退。藤原では追撃してくる敵軍を敗走、敵軍は中村半次郎が来るまで会津に突入することが出来なかった。会津戦争、既に包囲された会津若松城に入城できず。会津地方の伝統芸能・彼岸獅子を先頭で舞わせながら入城するという離れ業を演じる。籠城中は防衛総督として勇戦するも、落城。

  • 1868(慶応4/明治元)年 伴正順(26歳)、戊辰戦争、土佐藩迅衝隊大軍監として従軍。4月15日、新兵二小隊を率いてイギリス船で大阪を出発。第一次今市戦後の27日、迅衝隊総督・板垣退助らが滞陣する今市に到着。以後、棚倉城・三春城への進軍、二本松の戦い、会津戦争に加わり、迅衝隊諸隊を率いる。二本松城落城後、土佐藩主・山内豊範の姉が米沢藩主上杉斉憲に嫁いでいる関係から、迅衝隊大軍監・谷干城、片岡健吉、との連名で米沢藩に勧降書が送られ、これが同藩の降伏につながる。会津藩降伏後、迅衝隊は東京に凱旋、片岡健吉と共に凱旋兵を率いる。10月30日、高知に戻る。

  • 1869(明治2)年 谷干城(33歳)、参政に。

  • 1870(明治3)年 板垣退助(34歳)、高知藩の大参事に。人民平均の理を発令。

  • 1870(明治3)年 谷干城(34歳)、少参事に。高知にて、藩政改革に尽力。東京の後藤象二郎と板垣退助による積極財政と浪費により、藩財政が傾く。これに反発、片岡健吉と共に費用削減を遂行。これが怒りを買い、藩政から排除される。しかし、浪費で財政が傾き、反対派から信望を集める結果に。

  • 1871(明治4)年4月 谷干城(35歳)、少参事に復帰。藩兵の軍制改革に尽力。

1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県

藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。

  • 1872(明治5)年7月 谷干城(36歳)、明治新政府に出仕、兵部権大丞に。

  • 1873(明治6)年 谷干城(37歳)、陸軍裁判長に転任。陸軍少将に。

  • 1873(明治6)年 山川浩(29歳)、戊辰戦争での活躍を識る谷干城の推薦により、陸軍に八等出仕。陸軍少佐として熊本鎮台に移る。

1873(明治6)年10月24日-10月25日 明治六年政変

征韓論に端を発した一大政変。政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞す。発端は、西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対し、その旨を伝える使節を幾度か派遣。また朝鮮においては、興宣大院君が政権を掌握、儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始め、日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるように。西郷隆盛は交渉よりも武力行使を前提に、朝鮮使節派遣を目論む。これに賛同したのが、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋、大隈重信大木喬任ら。反対したのが大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、黒田清隆ら。岩倉遣欧使節団派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、留守政府を預かっていた西郷隆盛らが急激な改革を起こし、混乱していたことも大久保利通らの態度を硬化させた。また、日本には朝鮮や清、ひいてはロシアと交戦できるだけの国力が備わっていないという戦略的判断、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという国際的立場より猛烈に反対、費用の問題なども絡め征韓の不利を説き、延期を訴える。

閣議において、大隈重信大木喬任が反対派にまわり、採決は同数に。しかし、賛成意見が通らない場合は辞任するという西郷隆盛の言葉に恐怖した議長・三条実美は即時派遣を決定。これに対し、反対派も辞表提出、辞意を伝える。明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、太政大臣・三条実美が過度のストレスにより倒れ、意識不明となる。代わって岩倉具視が太政大臣代理に。岩倉具視は派遣決定と派遣延期の両論を上奏。明治天皇は派遣延期の意見を採用、朝鮮使節派遣は無期延期の幻となった。

西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣は辞表を提出。受理され、賛成派参議5名は下野。桐野利秋ら西郷隆盛に近く、征韓論を支持する官僚・軍人も辞職。更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷隆盛を咎めず、逆に西郷隆盛に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣退助・後藤象二郎に近い官僚・軍人も辞職。この政変が、後の士族反乱や自由民権運動の発端となる。

  • 1873(明治6)年 板垣退助(37歳)、明治六年政変、書契問題に端を発する度重なる朝鮮国の無礼に、世論が沸騰。率先して征韓論を主張するも、欧米視察から帰国した岩倉具視ら穏健派によって閣議決定を反故にされる(征韓論争)。これに激憤、西郷隆盛らと共に下野。世論もこれを圧倒的に支持、倣って職を辞する官僚が600名あまりに及ぶ。自身と土佐派官僚が土佐で自由民権を唱える契機となる。

  • 1873(明治6)年 谷干城(37歳)、熊本鎮台司令長官に。徴兵令を巡る対応が人事に絡み、反対派の桐野利秋が辞任。自身は賛成派であったため、山縣有朋に任じられたという事情が。軍の近代化に取り組み、部隊にフランス式訓練を施す中、明治六年政変で板垣退助が下野したことで高知出身の軍人も多数下野。鎮台に出火騒ぎや部隊暴動が起こり、動揺をもたらした板垣退助との確執を強めていく。

  • 1874(明治7)年2月 谷干城(38歳)、佐賀の乱。岩村高俊県令の護衛として派遣した部下の山川浩率いる第11大隊が、佐賀城で不平士族に包囲される。大隊約300人のうち半分近くを失う痛手。大阪・東京鎮台からの増援により、乱を鎮圧。

  • 1874(明治7)年4月10日 板垣退助(38歳)、片岡健吉・山田平左衛門・植木枝盛・林有造らと共に、天賦人権を宣言。人民の知識の発達、気風の養成、福祉の上進、自由の進捗を目的に政治団体・立志社結成。高知の自由民権運動の中心となる。また、近代的な教育・民権思想の普及を担う立志学舎創立。教員に、慶應義塾を卒業した江口高邦と深間内基、矢部善蔵を迎え、次いで土佐藩藩校教授だった塚原周造、久米弘行、森春吉が駆けつける。慶應義塾と同じカリキュラムが組まれ、フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーの文明史、高水準の政治学、経済学、歴史学、地理学などを教授。法律研究所や新聞縦覧所を置き、『高知新聞』を発行するなど多様なかつ教育を行う。

  • 1874(明治7)年 福澤諭吉(40歳)、明治六年政変で板垣退助・後藤象二郎・江藤新平が野に下ると、高知の立志学舎慶応義塾門下生を教師として派遣。また、後藤象二郎の政治活動を支援。国会開設運動の先頭に立ち、郵便報知新聞に『国会論』と題する社説を掲載。

  • 福澤諭吉板垣退助の愛国社から頼まれ、『国会を開設するの允可を上願する書』起草に助力。

  • 1874(明治7)年5月-12月 谷干城(38歳)、台湾出兵、陸軍中将・西郷従道の下、海軍少将・赤松則良と共に参戦。熊本鎮台司令長官から、参軍に転任。出兵後は政府の方針に不満を、抱き高知に逼塞。同郷の佐々木高行から帰京を促される。

  • 1875(明治8)年1月-2月 大久保利通(46歳)、参議・伊藤博文と前大蔵大輔・井上馨の斡旋により、木戸孝允・板垣退助と大阪にて秘密政治会談(大阪会議)。1873(明治6)年の政変、1874(明治7)年の民撰議院設立建白・佐賀の乱・台湾出兵などにより、大久保利通を中心とする政府が孤立、政局は危機に瀕する。この窮状を打破するため、先に下野した木戸孝允の政府復帰を望み、板垣退助も参加させる形で会談にこぎつける。元老院・大審院の創設、地方官会議の開催、参議と省の卿との分離など政体改革構想で合意。木戸孝允・板垣退助が参議に復帰。4月、参議省卿の分離問題を除く大阪会議の合意事項が実現。しかし、改革実施過程で再び対立。10月、板垣退助辞職。一連の改革により、政府は安定度を増す。

  • 1875(明治8)年 大隈重信(38歳)、大阪会議の開催を知らされず。関係が悪化していた木戸孝允の政界復帰は、自身の権力基盤を脅かすことに。この頃から、体調不良を理由に出仕せず。三条実美・岩倉具視・大久保利通は大蔵卿解任を検討するも、後任候補の伊藤博文が辞退したこと、大隈重信以上の財政家の不在を理由に慰留・続投を促す。しかし、復帰した木戸孝允・板垣退助も辞任を要求。大久保利通に庇護される形に。10月29日、島津久光・板垣退助が辞職、木戸孝允が病状悪化、自身への攻撃は消滅。

  • 1875(明治8)年10月29日 板垣退助(39歳)、大阪会議、参議に復帰するも民衆の意見が反映される議会制政治を目指し、間もなく辞任。再び自由民権運動に身を投じる。

  • 1876(明治9)年10月-11月 谷干城(40歳)、神風連の乱、不平士族に殺害された種田政明の後任として、再び熊本鎮台司令長官に。樺山資紀が参謀長、児玉源太郎・川上操六が参謀として脇を固める。

  • 1877(明治10)年 谷干城(41歳)、西南戦争、52日にわたって薩軍の攻撃から熊本城を死守。政府軍の勝利に貢献。薩軍からは反政府派の1人とみなされ、樺山資紀と共に寝返りを期待されるも、薩摩軍との対決を選び籠城。2月19日、熊本城から出火、天守閣を始め主要施設を失い、兵糧が欠乏。22日、開始された薩軍の攻撃を必死に耐えしのぐ中、銃撃で樺山資紀が負傷。与倉知実も戦死。苦戦になったが、侵入を防ぐ。薩摩軍は翌23日にも攻撃、失敗したため強襲を諦める。24日から包囲に切り替え。包囲中、鎮台兵と薩摩軍の攻防は続く。3月、北から救援軍が迫り、海路からも別働隊(衝背軍)が南の八代に上陸。熊本城に近付く。4月8日、奥保鞏を隊長とする外部との連絡部隊を城外へ放ち、衝背軍との合流に成功。11日、狙撃され重傷を負う。14日、旧知の山川が衝背軍の一部隊を率いて熊本城へ入城、包囲は解放。籠城後も休む暇はなく山縣有朋の指揮下で九州を転戦。19日、鎮台兵は城東会戦で薩軍と戦い、大分方面へ転戦、野村忍介の部隊とも激戦を展開。9月、城山の戦いで終止符を打つ。西南戦争の勝利により、名声が高まる。政府や明治天皇の信頼を獲得、軍部からも一目置かれるように。

  • 1877(明治10)年 山川浩(33歳)、西南戦争、陸軍中佐・征討軍団参謀として出征。選抜隊を率いる。薩摩軍が攻囲、熊本鎮台司令長官・谷干城が立て篭もる熊本城への入城に成功、救援部隊第1号に。西南戦争を「会津藩名誉回復の戦争」と捉え、「薩摩人 みよや東の丈夫が 提げ佩く太刀の 利きか鈍きか」という歌を詠む。

  • 1878(明治11)年 谷干城(42歳)、高知で自由民権運動が過激化することを憂う。板垣退助の急進的な民権派の政治団体立志社に対抗、佐々木高行と共に穏健な政治運動を標榜する中立社を立ち上げ。立志社の勢いに太刀打ち出来ず、廃社。​

  • 1878(明治11)年11月 谷干城(42歳)、西南戦争の功績により、陸軍中将に。陸軍士官学校校長、陸軍戸山学校校長に。

  • 1881(明治14)年3月-6月 谷干城(45歳)、台湾出兵で戦死・病死した将兵の遺体を一部の地方官が乱暴に取り扱った事実を政府・陸軍首脳部が放置していたと知り、抗議の辞任。明治天皇は意見を評価、辞任を差し止めようとする。

1881(明治14)年10月 明治十四年の政変

自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すドイツ型のビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶応義塾門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。

政府から追い出され下野した福澤諭吉慶応義塾門下生らは『時事新報』を立ち上げ。実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に創立。

  • 1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、明治十四年の政変、自由民権運動に同調。国会開設意見書を提出、早期の憲法公布と国会の即時開設を説く。一方、開拓使官有物払下げを巡り、かつての盟友である伊藤博文ら薩長勢と対立。自身の財政上の失政もあり、参議を免官に。下野。

1881(明治14)年10月12日 国会開設の勅諭

自由民権運動の高まりを受け、また明治十四年の政変による政府批判の鎮静化を目的に。明治天皇が「10年後の1890(明治23)年に議員を召して国会を開設すること」・「その組織や権限は自ら定めて公布する(欽定憲法)こと」を勅諭。政府は政局の主導権を取り戻す一方、自由民権運動は国会開設に向けた政党結成に向かうことに。

  • 1882(明治15)年 谷干城(46歳)、開拓使官有物払下げ事件、政府に動揺が拡がる。曾我祐準・鳥尾小弥太・三浦梧楼ら3人の軍人と四将軍派を結成。佐々木高行と共に、払下げ反対を表明。9月、連名で国会開設の建白書を提出。10月、佐々木高行と同志の元田永孚・土方久元らと結託、中正党を結成。現役軍人でありながら、政治に大きく関与する。この姿勢を山縣有朋に危険視され、明治十四年の政変で大隈重信が政府から追放され事態が収拾されると、佐々木高行が政府に取り込まれ中正党の運動も不明瞭に。山縣有朋が軍人の政治関与を禁じた軍人勅諭を制定、四将軍派の活動は抑えられる。

  • 1884(明治17)年5月 谷干城(48歳)、非職でありながら度々政府から復職を望まれ、学習院第2代院長として復帰。かねてより華族の教育を構想していた伊藤博文に改革を依頼される。皇室の藩屛(守護)となることを目指した華族の子弟教育を推進、軍人養成に力を注ぐ。将来の議会政治にも目を向け、華族が天皇に忠誠を尽くし、独立した勢力として議会で公平に政治活動していく構想も。政治・外交にも長けた多様な人材育成を目指す。

1884(明治17)年7月7日 華族令

制度取調局局長・伊藤博文を中心に制定。華族を公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5爵に区分。旧公家の華族は家格により、旧大名の華族は石高により爵位受爵。また、国家に勲功ある者を新たに華族に列する。爵位は代々世襲される(永世華族)。1889(明治22)年貴族院令にて、同爵の互選により貴族院議員となる特権を持つ。華族令制定直後の7月中に509名の有爵者が誕生。

  • 1884(明治17)年7月 谷干城(48歳)、華族有志青年会を設立。多くの華族を惹きつけ、議会に備えていく。これらの功績が認められ、華族令が制定されると子爵に叙せられる。

  • 1885(明治18)年 谷干城(49歳)、内閣制度が発足、第1次伊藤博文内閣の初代農務省大臣に。陸軍が薩長藩閥の主流である状態に四将軍派が反発。軍の人事や組織案などに口出し、軍内で活動を再開。山縣有朋、大山巌、桂太郎、川上操六ら主流派と対立、軍事方針とそれに伴う外交を巡り衝突。農商務相就任は伊藤博文が四将軍派の関心を得るための人事であり、明治天皇も閣僚登用を望んだ事情から成り立っていた。

  • 1886(明治19)年 谷干城(50歳)、伊藤博文・井上馨らが主流派の軍拡と清への強硬姿勢に反対。三浦梧楼の軍縮案に傾く。しかし、陸軍紛議と呼ばれる対立の結果、四将軍派は軍から追われることに。後に支持基盤だった軍事研究団体・月曜会も解散。左遷・罷免された三浦梧楼・曾我祐準と違い、報復人事は無かったが、陸軍の政治関与に否定的だった児玉源太郎が陸軍大学校校長に。教育を通じて四将軍派の影響力が軍から排除される。以後、政治へ本格的に関わっていくように。

  • 1886(明治19)年3月 - 1887(明治20)年6月 谷干城(50-51歳)、欧州視察。エジプトでアフマド・オラービーと出会い、外債をきっかけに列強に侵略された惨状を日本の将来に重ね不安を覚える。スイス・ギリシャにて、国民政治が行き届き、自治確立によって列強の侵略を許さない姿勢に理想を見出す。西洋文明の過剰導入による借金で国が疲弊、それを列強に付け入れられることを危惧、日本の欧化主義に否定的になり、国粋主義者に変貌。閣僚にも拘らず、政府批判を考え始める。オーストリアでローレンツ・フォン・シュタインの講義を受けたことで自作農保護の農本思想を採り入れる。議会を通じて国民の自治を重視する政治家に変わっていく。

  • 1887(明治20)年5月 板垣退助(51歳)、自由民権運動家の立場より、華族制度に消極的であり、授爵の勅を二度断わる。しかし、三顧之礼を周囲から諭され、三度目にしてやむなく伯爵位を授爵。結果、衆議院議員となることはなく、また貴族院でも伯爵議員の互選にも勅選議員の任命も辞退したため、帝国議会に議席を持つことはなかった。

  • 1887(明治20)年7月3日 谷干城(51歳)、帰国後、閣内の国権派として伊藤博文内閣の欧化政策を批判。「条約改正に関する意見書」を内閣へ提出。条約改正問題を取り上げ、改正案に外国人裁判官任用が記されていることに反対。議会開設にも触れ、言論の自由を主張。この行為は政府内で大問題となり、井上馨と口論、伊藤博文も反論。佐々木高行・元田永孚ら同志と結託、改正反対運動を展開。意見が内閣に受け入れられず、閣僚辞任。井上馨も反対運動の拡大と条約改正失敗により、辞任。改正は阻止される。

  • 1887(明治20)年9月 谷干城(51歳)、一連の騒動で民権派による大同団結運動が盛り上がり、民衆から英雄に祭り上げられる。これは本意ではなく、高知へ帰郷すると政界復帰を拒む。

  • 1888(明治21)年 谷干城(52歳)、陸羯南主宰の新聞『東京電報』援助のため上京。

  • 1888(明治21)年7月 谷干城(52歳)、明治天皇の要請で、学習院御用掛に。高知へ戻り、短期間で辞職。

​1889(明治22)年2月11日公布 1890(明治23)年11月29日施行 大日本帝国憲法(明治憲法)

君主大権のプロイセン憲法(ドイツ憲法)を参考に、伊藤博文が日本独自の憲法を草案。明治天皇より『大日本憲法発布の詔勅』が出され、大日本帝国憲法を発布。国民に公表される。

明治新政府は大政奉還・王政復古を経て、天皇の官制大権を前提に近代的な官僚機構構築を目指し、直接的君主政に移行。大日本帝国憲法第10条にて、「官制大権が天皇に属する」と規定。

版籍奉還を経て、土地と人民に対する統治権を藩・藩主より天皇に奉還。天皇の下に中央政府が土地・人民を支配、統治権(立法・行政・司法)を行使。廃藩置県を経て、国家権力が中央政府に集中。大日本帝国憲法第1条および同4条にて、「国家の統治権は天皇が総攬する」と規定。同時に、人民の財産権・居住移転の自由を保障。等しい公務就任権を規定。兵役の義務を規定。

衆議院と貴族院の両院制による帝国議会を開設、華族の貴族院列席特権を規定。

  • 1889(明治22)年2月 谷干城(53歳)、因縁のある後藤象二郎が黒田内閣に引き抜かれ、大同団結運動分裂。

  • 1889(明治22)年8月-10月 谷干城(53歳)、三浦梧楼・浅野長勲ら共に、日本倶楽部を設立。黒田内閣の外相・大隈重信の条約改正案にも反対する形で政治結社化を目論むも、改正の無期限延期による問題棚上げと内部対立より、日本倶楽部解散。政治結社化、失敗。

  • 1889(明治22)年 谷干城(53歳)、予備役に編入、軍人退役。

  • 1890(明治23)年 谷干城(54歳)、貴族院議員に、政界復帰。帝国議会が開会を迎えると、学習院で掲げた皇室の藩屛たらんとし、政党・政府から自立して懇話会に属す。地租増徴に反対するなど、独自の政治運動を展開。明治天皇や元田永孚からは枢密院か宮中入りを望まれたが、それを断る。政界から皇室を守ることを決断した上での貴族院入りに。

  • 谷干城、国粋主義、農本主義的立場から、藩閥とも板垣退助ら民権派とも異なる保守的な中正主義で土佐派の重鎮として重きを成す。政治思想は天皇に忠誠を尽くす皇室崇敬、衆議院政党と政府からの独立および監視、政党・政府関係なく政策を吟味し国民の利益になる場合は賛成、そうでない内容では反対する是々非々主義、国民の利益を重視する国家主義を唱える。この思想は貴族院のほとんどの有力者が掲げ、貴族院全体が目指す普遍的な目標となり、同じく政界入りした曾我祐準と、主張が一致する三曜会の領袖・近衛篤麿と組んで政争に立ち向かう。

  • 1890(明治23)年 小幡篤次郎(49歳)、学識者として貴族院議員に。谷干城・三浦安・山川浩と共に懇話会に所属。貨幣制度調査委員に。

  • 1891(明治24)年 近衛篤麿(29歳)、同志会を三曜会と改称。同じく五摂家出身の二条基弘らと共に三曜会に属し、谷干城らが結成した懇話会と共同歩調を取る。後に三曜会が衰退すると朝日倶楽部と合併、同じく活動が低調になった懇話会とも合併、新たに結成した土曜会に移り活動を続ける。

  • 1895(明治28)年 近衛篤麿(33歳)学習院第7代院長に。華族子弟の教育に力を注ぐ。ノブレス・オブリージュを果たすため、学習院が高い水準の教育機関であるよう組織を整備。必要な財源の確保と財務のあり方を確立することに尽力。

  • 懇話会・三曜会を合併した朝日倶楽部が衰退も、政治活動を続ける。貧民救済の立場から足尾鉱毒事件で実地調査と被害者救済に奔走、田口卯吉と地租増徴を巡り論争、宮古島における人頭税廃止運動を熱心に応援、自作農保護の観点から地租増徴に反対。しかし、時勢は貴族院の自立を主張する一派が衰退、衆議院と連携した内閣との妥協が貴族院の政治姿勢に。頑なな態度が近衛篤麿同志の離反を招く結果に。

  • 1911(明治44)年5月13日 谷干城(75歳)、死去。享年75歳。

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