ダイガクコトハジメ - 専修大学
専修大学
創立 : 1880(明治13)年9月14日
大学設立: 1923(大正12)年
前史 :
日本法律会社/東京法学会 → 慶應義塾夜間法律科・三叉学舎法律経済科・東京攻法館法律科を統合 → 専修学校 → 私立専修大学 → 専修大学
「専修大学」年表
1874(明治7)年12月
-
駒井重格(22歳)、旧桑名藩主・松平定敬・松平定教父子に随伴し、アメリカ留学。ニューブランズウィックの大学予備門で学んだ後、「ラトガース大学」で経済学を学ぶ。英語のほか、フランス語にも熟達。渡米中、同じく経済学を学ぶ相馬永胤、田尻稲次郎、目賀田種太郎と親交。
1875(明治8)年
-
相馬永胤(24-25歳)、再渡米、「コロンビア法律学校(現在のコロンビア大学ロー・スクール)」入学。同期の日本人留学生に、徳川御三卿清水家当主・徳川篤守、鳩山和夫ほか、文部省の留学生監督に目賀田種太郎。
1875(明治8)年
1875(明治8)年
-
目賀田種太郎(21-22歳)、文部省の留学生監督となり、「東京開成学校」の生徒9人(鳩山和夫、小村寿太郎、菊池武夫、斎藤修一郎、長谷川芳之助、松井直吉、原口要、平井晴二郎、南部球吾)を引き連れて再渡米。後に政財界・教育界で活躍する俊英揃いであった。自身も法律を学ぶ。
1875(明治8)年
-
鳩山和夫(18-19歳)、第1回留学生に選ばれ、米国留学。「コロンビア大学」で法学士取得。「イェール大学」で法学博士号を取得。米国留学中、「専修学校」設置構想に加わる。相馬永胤・田尻稲次郎・目賀田種太郎・駒井重格らに準ずる存在であった。
1875(明治8)年
-
渡米し法律を学ぶ相馬永胤、目賀田種太郎、江木高遠、鳩山和夫、清水篤守、神鞭知常、津田純一ら法学徒が集うクラブ・研究会で、討論会などを開き演説の練習や法律語彙の翻訳を行う「日本法律会社」結成。「専修学校」の土台に。
1875(明治8)年1月21日
-
相馬永胤(24歳)、「日本法律会社」結成について、「われわれが帰国後、われわれの法律上の計画を実行しようというのが、わが法律クラブの目的である」と日記に記す。
1876(昭和9)年
代言人(現在の弁護士)の資格試験制度が成立、前後より各地で試験準備のための私塾的な法律学校が開校。
1879(明治12)年
-
相馬永胤(28-29歳)、日本に帰国。目賀田種太郎と共同で東京市京橋区(現在の東京都中央区)に法律事務所を開設。事務所の2階に、やはり米国から帰ったばかりの田尻稲次郎と駒井重格が寄宿。4人で起居を共にし、学校設立の準備に動き出す。
1879(明治12)年12月
1880(明治13)年
日本最初の近代法として刑法・治罪法制定、「代言人規則」改正により資格試験が厳格化、本格的な法律学校が設立されるように。
1880(明治13)年1月
1880(明治13)年3月
1880(明治13)年9月14日
-
相馬永胤(29歳)、「慶應義塾夜間法律科」を独立させる形で、「三叉学舎法律経済科」、「東京攻法館法律科」の3社を統合、田尻稲次郎、目賀田種太郎、駒井重格と共に「専修学校」創立。初代校長に。日本で最初の私立法律経済学校が誕生。「明治法律学校」、「東京専門学校」、「東京法学校」、「英吉利法律学校」と「五大法律学校」と呼ばれる。福澤諭吉の好意により、「簿記講習所」を仮校舎として利用。
-
法律学を本格的に教える教育機関は、「東京大学法学部」、「司法省法学校」など極少数であった。「東京大学法学部」が英語、「司法省法学校」が仏語で教授していたのに対し、「専修学校法律科」は日本語で英米法を教授する唯一の本格的法律学に。多くの学生を集める。
1882(明治15)年
-
岡倉天心(18-19歳)、「専修学校」教師に。創立時の繁栄に貢献。
1885(明治18)年
-
神田神保町に校舎新築し、移転。
1886(明治19)年
「五大法律学校」、私立法律学校特別監督条規、東京府下に所在、特に教育水準が高く特別許認可を受けた「英吉利法律学校」・「専修学校」・「東京専門学校」・「東京法学校」・「明治法律学校」の5校について、「帝国大学」総長の監督下に。帝国大学特別監督学校となる。
1893(明治26)年12月
「九大法律学校」、司法省が最初に「判事検事登用試験」の受験資格を与えた司法省指定学校より、関西の「関西法律学校」を除いて「帝国大学」を加えたものに由来。「東京帝国大学」・「東京法学校」・「専修学校」・「明治法律学校」・「東京専門学校」・「東京法学院」・「獨逸学協会学校専修科」・「日本法律学校」・「慶應義塾大学部」の9つを指す。
1899(明治32)年8月3日公布 8月4日施行
私立学校令、私立学校のみを対象とする最初。私学の基盤を一定整備、日本の近代教育の中で存在が正当なものに位置付けられる。同時に、私学は直接・間接的に国家の教育政策からの強い統制を受けることに。
1903(明治36)年3月27日公布
専門学校令、中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。専門学校には、予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。
1913(大正2)年
-
相馬永胤(62-63歳)、「専修学校」を「私立専修大学」と改称。初代学長に。
1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行
大学令、原敬内閣の高等教育拡張政策に基づき、法制度上における「帝国大学」と別種の大学を設置。専門学校の大学への昇華が認可される。大学の性格を、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養二留意スヘキモノトス」と規定。その構成に関し、数個の学部を置くのを常例とするとし、設置する学部として法学・医学・工学・文学・理学・農学・経済学および商学の8学部をあげる。特別の必要のある場合には1個の学部を置くことができるとし、単科大学の成立も認めた。
1923(大正12)年
-
大学令により、大学昇格。「専修大学」設立。
1946(昭和21)年3月
学制改革、第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づき、日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、「東京帝国大学」総長・南原繁らにより推進される。主な内容は複線型教育から単線型教育の「6・3・3・4制」の学校体系への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを除去、教育機会の均等を主目的とした。