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開成学校/大学南校

箕作秋坪

みつくりしゅうへい

1826(文政8)年12月8日/1月15日 - 1886(明治19)年12月3日

1826(文政8)年12月8日/1月15日

  • 箕作秋坪、備中国(現在の岡山県)の儒者・菊池陶愛の次男として生まれる。

  • 箕作秋坪、美作国津山藩士・箕作阮甫の弟子となる。

  • 箕作秋坪、幕府の外交他事の中、幕府「天文方」で翻訳に従事。

1850(嘉永3)年

  • 箕作秋坪(23-24歳)、箕作阮甫の二女・つねと結婚、婿養子となる。​

1859(安政6)年

  • 箕作秋坪(32-33歳)、幕府「蕃書調所」の教授手伝となる。

1860(万延元)年

  • 箕作秋坪(33-34歳)、師である「適塾緒方洪庵より求められ、高価な英蘭辞書二冊を提供。緒方洪庵は自身にとどまらず、門人や息子にも英語を学ばせる。

1862(文久元)年12月22日/1月21日 - 1863(文久2)年12月11日/1月30日

文久遣欧使節団、1858(安政5)年に江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルと交わした修好通商条約について、両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉を目的に、ヨーロッパに最初の使節団を派遣。正使、下野守・竹内保徳。副使、石見守・松平康直、目付、能登守・京極高朗。この他、組頭・柴田剛中、福地源一郎、福澤諭吉、松木弘安(寺島宗則)、箕作秋坪らが一行に加わり、総勢36名に。後日、通訳の森山栄之助と渕辺徳蔵が加わり38名に。

1862(文久元)年12月22日/1月21日 - 1863(文久2)年12月11日/1月30日

  • 箕作秋坪(34-35歳)、幕府による文久遣欧使節に。福澤諭吉、寺島宗則、福地源一郎らと随行、ヨーロッパを視察。

1866(慶応2)年

  • 箕作秋坪(39-40歳)、樺太国境交渉の使節としてロシアへ派遣。

 

1868(明治元)年

  • 箕作秋坪(41-42歳)、浜町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)の津山藩江戸屋敷の一角を借り、私塾「三叉学舎」を創立。漢学、数学に加えて、幕末期にオランダ語に代わって習得が急務となっていた英語が教えられる。福沢諭吉の「慶應義塾」と並び「洋学塾の双璧」と称される。東郷平八郎、原敬、平沼騏一郎、大槻文彦ほか、日本の政治・経済・教育を牽引する人材を輩出。

1873(明治6)年7月

  • 森有礼(25-26歳)、アメリカより帰国。富国強兵のためには人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と考える。欧米で見聞した「学会」を日本で実現しようと、福澤諭吉加藤弘之中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪杉亨二・箕作麟祥らに働きかけ、日本初の近代的啓蒙学術団体となる「明六社」結成。初代社長に就任。会員には旧幕府官僚で、「開成所」の関係者および「慶應義塾」門下生の官民調和で構成された。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派、日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族など参加。

1873(明治6)年7月

  • 箕作秋坪(47歳)、富国強兵のために人材育成が急務であり、欧米で見聞した「学会」を日本で実現しようという森有礼の働きかけに応じ、福澤諭吉加藤弘之中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・杉亨二・箕作麟祥らと共に日本初の近代的啓蒙学術団体となる「明六社」結成。まもなく、社長を務める。

1876(明治9)年2月

  • 福澤諭吉(41歳)、懇意にしていた森有礼の屋敷で寺島宗則や箕作秋坪らと共に、初めて大久保利通と会談。晩餐のあと、大久保利通が「天下流行の民権論も宜しいけれど人民が政府に向かって権利を争うなら、またこれに伴う義務もなくてはならぬ」と述べる。自身を民権論者の首魁のように誤解していると感じ、民権運動を暴れる蜂の巣に例えて、「蜂の仲間に入って飛場を共にしないばかりか、今日君が民権家と鑑定した福沢が着実な人物で君らにとって頼もしく思える場合もあるであろうから幾重にも安心しなさい」と回答。

1879(明治12)年

  • 箕作秋坪(52-53歳)、文部卿・西郷従道の発案に基づき、研究者による議論や評論を通じ学術の発展を図ることを目的とする政府機関「東京学士会院」が設立される。加藤弘之、神田孝平、津田真道、中村正直、西周、福澤諭吉と共に、創立会員7名の一人となる。初代会長は、福澤諭吉

1879(明治12)年

  • 箕作秋坪(52-53歳)、教育博物館(国立科学博物館の前身)の館長に。

1879(明治12)年

  • 箕作秋坪(52-53歳)、従五位に叙せられる。

1880(明治13)年1月

  • 箕作秋坪(53-54歳)、渡米留学の子・箕作佳吉が相馬永胤らと学術クラブ「興学社」を起こした縁より、私塾「三叉学舎」に法律経済科を設立。

1880(明治13)年9月14日

  • 箕作秋坪(42歳)、「慶應義塾夜間法律科」を分離する形で独立すると共に、私塾「三叉学舎」、東京攻法館ほか旧来の私塾と合同で、日本初の本格的私立法律・経済学校「専修学校」を創立。

1885(明治15)年

  • 箕作秋坪(58-59歳)、東京図書館(帝国図書館および国立国会図書館の前身)の館長に。

  • 箕作秋坪、「東京師範学校」摂理に。

1886(明治19)年12月3日

  • 箕作秋坪(60歳)、死去。享年、60歳。

箕作秋坪
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