慶應義塾大学

福澤諭吉

​ふくざわゆきち

1835(天保5)年12月12日/1月10日 - 1901(明治34)年2月3日

1835(天保5)年12月12日/1月10日

  • 福澤諭吉、摂津国大坂堂島浜にある豊前国中津藩(現在の大分県中津市)蔵屋敷に下級藩士・福澤百助と母・於順の間に次男として生まれる。名の由来は、儒学者でもあった父・福澤百助が『上諭条例』の書を手に入れた夜に生まれたことによる。

1836(天保6)

  • 福澤諭吉(1歳)、父・福澤百助が死去、中村栗園に見送られ、大坂の中津藩蔵屋敷かより帰藩。幼少期を中津藩で過ごす。

  • 福澤諭吉、叔父・中村術平の養子に、中村諭吉を名乗る。

  • 福澤諭吉、親兄弟や当時の一般的な武家の子弟と異なり、孝悌忠信や神仏を敬うという価値観を持たず。お札を踏んでみたり、神社で悪戯をしてみたりと、悪童まがいのはつらつとした子供だった。一方、刀剣細工や畳の表がえ、障子のはりかえをこなすなど、内職に長ける面も。

  • 福澤諭吉(5歳頃)、藩士・服部五郎兵衛に、漢学と一刀流の手解きを受ける。

  • 福澤諭吉(14-15歳)、はじめは読書嫌いであったが、近所で自分だけ勉強をしないというのも世間体が悪いということで勉学を始める。始めてみるとすぐに実力をつけ、さまざまな漢書を読み漁り、漢籍を修める。

  • 福澤諭吉(18歳)、兄・福澤三之助も師事した野本真城・白石照山の塾「晩香堂」へ通う。勉学は『論語』『孟子』『詩経』『書経』をはじめ、『史記』『左伝』『老子』『荘子』に及ぶ。、特に『左伝』が得意で、15巻を11度読み返し、面白いところを暗記。先輩を凌ぎ、「漢学者の前座ぐらい」は勤まるように。学問の傍ら、立身新流の居合術を習得。

  • 福澤諭吉、学問的・思想的源流に亀井南冥や荻生徂徠があり、師・白石照山は陽明学や朱子学も修めていたが、亀井学の思想に重きを置き、学問の基本に儒学が根ざす。後に蘭学を経て思想家になる過程でも、この学統が原点に。

1850(嘉永3)年頃

  • 佐久間象山、私塾「象山書院」に近い江戸中津藩邸より、多数の中津藩子弟を受け入れ。砲術・兵学を教える。島津文三郎のように、直伝の免許を受けた者もいた。中津藩のため、西洋式大砲二門を鋳造。

1854(安政元)年

  • 福澤諭吉(18-19歳)、黒船来航、砲術の需要が高まる。兄・福澤三之助より「オランダ流砲術を学ぶにはオランダ語の原典を読まなければならないが、それを読んでみる気はないか」と誘われたのをきっかけに、長崎遊学。蘭学を学ぶ。その傍ら、蘭方医・石川桜所に教えを受ける。

  • 福澤諭吉、長崎奉行配下の役人で砲術家の山本物次郎宅に居候。オランダ通詞の下へ通い、オランダ語を学ぶ。蛮社の獄の際、高島秋帆が没収された砲術関係の書物が山本家に保管されており、山本家は所蔵の砲術関係書籍の貸与・書写で謝金をもらっており、福沢諭吉も鉄砲の設計図を引くことができるように。

  • 福澤諭吉、山本家の客、薩摩藩・松崎鼎甫にアルファベットを習う。

1855(安政2)年

  • 福澤諭吉(19-20歳)、山本家を紹介した奥平壱岐、その実家・中津藩家老格奥平家と不仲に。中津へ呼び戻されそうになるも、帰藩の意なく、大坂を経て江戸へ出る計画を強行。大坂堂島浜の豊前国中津藩蔵屋敷に務める兄・福澤三之助を訪ねる。「江戸へは行くな」と引き止められ、大坂で蘭学を学ぶことに。中津藩蔵屋敷に居候しながら、足守藩下士で蘭学者・緒方洪庵の「適塾(適々斎塾)」で学ぶことに。

  • 福澤諭吉、腸チフスを患う。緒方洪庵より「乃公はお前の病気を屹と診てやる。診てやるけれども、乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うてしまう。この薬あの薬と迷うて、あとになってそうでもなかったと言ってまた薬の加減をするというような訳けで、しまいには何の療治をしたか訳けが分からぬようになるというのは人情の免れぬことであるから、病は診てやるが執匙は外の医者に頼む。そのつもりにして居れ」と告げられ、緒方洪庵の朋友・内藤数馬から処置を施される。体力が回復すると、一時帰藩。

1856(安政3)年

  • 福澤諭吉(20-21歳)、再び大坂へ。兄・福澤三之助が死去、福澤家の家督を継ぐことに。大坂遊学を諦めきれず、父・福澤百助の蔵書や家財道具を売り払い、借金を完済。母・於順以外の親類から反対されるも、これを押し切り、「適塾」で学ぶ。学費を払う経済力はなく、緒方洪庵の好意により、奥平壱岐から借り受け密かに筆写した築城学の教科書『C.M.H.Pel,Handleiding tot de Kennis der Versterkingskunst,Hertogenbosch、1852年』を翻訳するという名目で、「適塾」の食客として学ぶことに。

1857(安政4)年

  • 福澤諭吉(21-22歳)、最年少で「適塾」10代塾頭に。オランダ語の原書を読み、あるいは筆写、その記述に従って化学実験、簡易な理科実験などを行う。生来血を見るのが苦手であり、瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さず。塾頭後任に、長與專齋を指名。

  • 福澤諭吉、工芸技術にも熱心に。化学道具を使って色の黒い硫酸を製造したところ、鶴田仙庵が頭からかぶり、危うく怪我をしそうになる。

  • 福澤諭吉、福岡藩主・黒田長溥が金80両を投じて購入した物理書『ワンダーベルツ』を写本、元素を配列、そこに積極消極(プラスマイナス)の順を定めることやファラデーの電気説(ファラデーの法則)を初めて知ることに。電気の新説を知り、発電を試みる。ほかに、昆布や荒布からのヨジュウム単体の抽出、淀川に浮かべた小舟の上でのアンモニア製造などを行う。

  • 江戸鉄炮洲の中津藩邸内にて、佐久間象山に学んだ中津藩士・岡見彦三が「蘭学塾」を設立。投獄・蟄居となった佐久間象山の後任を薩摩藩・松木弘安(後の寺島宗則)、杉亨二らが担っていた。しかし、幕府において勝海舟が台頭。「適塾」で塾頭をしていた福澤諭吉は、大砲も判り、勝海舟とも通じるため、白羽の矢が立てられる。中津藩家老が福澤諭吉を招聘、蘭学塾を任せる。

1858(安政5)年

  • 福澤諭吉(22-23歳)、幕末時勢の中、中津藩より江戸出府を命じられ、「適塾」を去る。江戸中津藩邸に開かれていた「蘭学塾」の講師となるため、古川正雄(後に古川節蔵)・原田磊蔵を伴い、江戸へ。築地鉄砲洲にあった奥平家中屋敷に住み込み、蘭学塾「一小家塾」にて蘭学を教える。間も無く、足立寛、村田蔵六の「鳩居堂」から移ってきた佐倉藩・沼崎巳之介、沼崎済介が入塾。「慶応義塾」の起源に。

  • 福澤諭吉、蘭学の総本山、幕府奥医師の中で唯一蘭方を認められていた桂川家が江戸中津藩邸とほど近く、桂川甫周・神田孝平・箕作秋坪・柳川春三・大槻磐渓・宇都宮三郎・村田蔵六らと共に出入り。終生深い信頼関係を築く。

1859(安政6)年

  • 福澤諭吉(23-24歳)、日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜を見物。そこではもっぱら英語が用いられており、自身が学んできたオランダ語がまったく通じず、看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。それ以来、英語の必要性を痛感。英蘭辞書などを頼りにほぼ独学で英語の勉強を始める。鎖国の日本ではオランダが鎖国の唯一の例外であったが、大英帝国が世界の覇権を握る中、オランダに昔日の面影はなかった。「蘭学塾」より英学塾に転身する契機に。

  • 福澤諭吉、英語の勉強を志すも、当時鎖国日本の中でオランダ語以外の本は入手困難であった。幕府通辞・森山栄之助を訪問、英学を学ぶ。「蕃書調所」へ入所するも、英蘭辞書が持ち出し禁止だったため、1日で退所。次いで神田孝平と一緒に学ぼうとするも、神田孝平は蘭学から英学に転向することに躊躇、今までと同じように蘭学のみを学習することを望む。そこで村田蔵六に相談、ヘボンに手ほどきを受けようとしていた。ようやく、「蕃書調所」の原田敬策と一緒に英書を読もうということになり、蘭学だけではなく英学も習得することに。

1860(万延元)年

  • 緒方洪庵(49-50歳)、門人の箕作秋坪から高価な英蘭辞書二冊を購入、英語学習も開始。自身にとどまらず、門人や息子にも英語を学ばせる。柔軟な思考は最後まで衰えなかった。

1860(安政7)年1月18日/2月9日 - 1860(万延元)年9月27日/11月9日

万延元年遣米使節、1858(安政5)年6月19日/7月29日締結の日米修好通商条約について、批准書の交換はワシントンで行うとされたため、江戸幕府がアメリカに使節団を派遣。外国奉行および神奈川奉行を兼帯していた新見正興を正使、村垣範正を副使に。目付に、小栗忠順。米軍艦ポーハタン号に加え、護衛を名目に咸臨丸を派遣。軍艦奉行・木村喜毅を司令官に、乗組士官の多くを「軍艦操練所」教授・勝海舟をはじめとする「海軍伝習所」出身者で固める。通訳に、中浜万次郎(ジョン万次郎)。軍艦奉行・木村喜毅の従者として、福澤諭吉も同行。総勢77人に。

1860(安政7)年1月18日/2月9日 - 1860(万延元)年9月27日/11月9日

  • 福澤諭吉(25歳)、日米修好通商条約の批准交換のため、万延元年遣米使節が米軍艦ポーハタン号で渡米。この護衛艦・咸臨丸に軍艦奉行・木村摂津守の従者として乗り込み、アメリカへ。蒸気船を初めて目にしてからたった7年後、日本人のみの手によって初めて太平洋を横断したこの咸臨丸による航海について、「日本人の世界に誇るべき名誉である」と述べる。

  • 福澤諭吉(25歳)、アメリカにて、科学分野に関しては書物によって既知の事柄も多かったが、文化の違いに関して衝撃を受ける。日本では徳川家康など君主の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに、アメリカ国民が初代大統領ジョージ・ワシントンの子孫が現在どうしているかということをほとんど知らないなど、不思議に思う。

  • 福澤諭吉(25歳)、アメリカにて、通訳・中浜万次郎(ジョン万次郎)と共に、『ウェブスター大辞書』省略版を購入。日本へ持ち帰り、研究の助けに。

  • 福澤諭吉の万延元年遣米使節渡米留守中、「蘭学塾」門下生の手により、翻訳途中だった『万国政表』を完成。

1860(万延元)年

  • 福澤諭吉(25歳)、アメリカより帰国。木村摂津守の推薦により、中津藩に籍を置いたまま幕府外国方に出仕。外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっており、英語とオランダ語を対照するのに都合が良く、英語の勉強を行う。​

1860(万延元)年

  • 福澤諭吉(25歳)、アメリカより帰国後、江戸鉄炮洲中津藩邸内にて、講義再開。しかし講義内容は従来のオランダ語ではなく、専ら英語に。蘭学塾から英学塾へと方針転換。

  • 福澤諭吉、アメリカより帰国後、アメリカで購入してきた広東語・英語対訳の単語集『華英通語』の英語にカタカナで読みをつけ、広東語の漢字の横には日本語の訳語を付記した『増訂華英通語』出版。初めて出版した書物に。

1862(文久元)年12月22日/1月21日 - 1863(文久2)年12月11日/1月30日

文久遣欧使節団、1858(安政5)年に江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルと交わした修好通商条約について、両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉を目的に、ヨーロッパに最初の使節団を派遣。正使、下野守・竹内保徳。副使、石見守・松平康直、目付、能登守・京極高朗。この他、組頭・柴田剛中、福地源一郎、福澤諭吉、松木弘安(寺島宗則)、箕作秋坪らが一行に加わり、総勢36名に。後日、通訳の森山栄之助と渕辺徳蔵が加わり38名に。

1862(文久元)年1月1日/1月30日 - 1863(文久2)年12月11日/1月30日

  • 福澤諭吉(27-28歳)、文久遣欧使節に幕府翻訳方として同行。同行者に、寺島宗則・福地源一郎・箕作秋坪がおり、行動を共に。途上、立ち寄った香港で植民地主義・帝国主義を目の当たりに。イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受ける。シンガポールを経てインド洋・紅海を渡り、スエズ地峡を汽車で越え、地中海を渡りマルセイユに上陸。リヨン、パリ、ロンドン、ロッテルダム、ハーグ、アムステルダム、ベルリン、ペテルブルク、リスボンなどを訪問。ヨーロッパでも土地取引など文化的差異に驚く。書物では分からない、病院・銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度・議会制度など、未知の事柄・日常について調べる。

  • 福澤諭吉(27-28歳)、ロンドンにて万国博覧会視察。蒸気機関車・電気機器・植字機に触れる。樺太国境問題を討議するために入ったペテルブルクにて、陸軍病院で外科手術を見学。

  • 福澤諭吉(27-28歳)、幕府支給の支度金400両で、英書・物理書・地理書を買い込み、日本へ持ち帰る。

1862(文久元)年12月22日/1月21日 - 1863(文久2)年12月11日/1月30日

  • 箕作秋坪(34-35歳)、幕府による文久遣欧使節に。福澤諭吉、寺島宗則、福地源一郎らと随行、ヨーロッパを視察。

1863(文久3)年 - 

  • 福澤諭吉(27-歳)、文久遣欧使節の品川帰港の翌日に英国公使館焼き討ち事件、1863(文久3)年3月に孝明天皇の賀茂両社への攘夷祈願、4月に石清水八幡宮への行幸を受け、長州藩が下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃するなど過激な攘夷論が目立つように。同僚の手塚律蔵や東条礼蔵が切られそうになるなど、外出も難しい世情に。

1863(文久3)年7月 

  • 福澤諭吉(28歳)、薩英戦争、幕府翻訳方の仕事が忙しくなる。外国奉行・松平康英の屋敷に赴き、外交文書を徹夜で翻訳。翻訳活動を進めていき、「蒸気船」→「汽船」のように三文字の単語を二文字で翻訳し始めたり、「コピーライト」→「版権」、「ポスト・オフィス」→「飛脚場」、「ブック・キーピング」→「帳合」、「インシュアランス」→「請合」などを考案。

1864(元治元)年7月/8月

  • 福澤諭吉(29歳)、禁門の変、長州藩追討の朝命が下り、中津藩に出兵を命じられるも、拒否。代わりに、以前より親交のあった仙台藩・大童信太夫を通じ、「江戸中津藩邸塾」の横尾東作を派遣。新聞『ジャパン=ヘラルド』を翻訳、諸藩を援助。

1864(元治元)年

1864(元治元)年

1864(元治元)年

1864(元治元)年10月

  • 福澤諭吉(29歳)、外国奉行支配調役次席翻訳御用として出仕。臨時御雇いではなく、幕府直参として150俵・15両を受け、御目見以上となり、御旗本に。

1865(慶応元)年

  • 福澤諭吉(29-30歳)、江戸幕府の長州征伐の企てについて、幕臣として『長州再征に関する建白書』献策。大名同盟論の採用に反対、江戸幕府存続のためには外国軍隊に依拠することも辞さないという立場をとる。

1866(慶応2)年 -

  • 福澤諭吉(30-歳)、ヨーロッパの状況を日本に紹介、『西洋事情』刊行。初編3冊、外編3冊、2編4冊の10冊。その内容は政治、税制度、国債、紙幣、会社、外交、軍事、科学技術、学校、図書館、新聞、文庫、病院、博物館、蒸気機関、電信機、ガス燈などに及ぶ。著書を通じ、啓蒙活動を展開。

1867(慶応3)年1月23日/2月27日

  • 福澤諭吉(31-32歳)、江戸幕府の軍艦受取委員会随員(通訳)として、使節主席・小野友五郎と共にコロラド号で再び渡米。津田仙・尺振八が同乗。ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れる。紀州藩や仙台藩から資金を預かり、およそ5,000両で辞書や物理書・地図帳を買い込む。

  • 福澤諭吉(32歳)、帰国後、現地で使節主席・小野友五郎と揉めたことで、しばらく謹慎に。中島三郎助の働きかけにより、謹慎はすぐに解ける。

1867(慶応3)年

  • 福澤諭吉(32歳)、『西洋旅案内』刊行。アメリカより帰国後、謹慎中に執筆。

1867(慶応3)年12月9日/1月3日

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1867(慶応3)年12月25日

  • 福澤諭吉(31-32歳)、塾建設用地として、芝新銭座の久留米藩有馬家中屋敷を355両で購入。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年

​戊辰戦争

1868(慶応4)年

  • 福澤諭吉(32-33歳)、江戸開城、明治新政府から出仕を求められるも、辞退。以後、官職につかず。翌年1869(明治2)年、帯刀をやめ、平民に。

1868(慶応4)年3月

  • 福澤諭吉(33歳)、塾を江戸鉄炮洲中津屋敷より芝新銭座へ移転。

1868(慶応4)年4月

  • 福澤諭吉(33歳)、塾を「慶應義塾」と名付ける。教育活動に専念。三田藩・仙台藩・紀州藩・中津藩・越後長岡藩と懇意に、藩士を大量に受け入れる。特に紀州藩は「慶應義塾」内に「紀州塾」という藩士専用の部屋まで造られる。長岡藩は大参事・三島億二郎が共鳴、藩士を多数送り込み、笠原文平らが運営資金を支える。

1868(慶応4)年5月15日/7月4日

  • 福澤諭吉(33歳)、上野戦争、明治新政府軍と彰義隊の合戦が起こる中、「慶應義塾」でF・ウェイランド『経済学原論』の講義を続ける。「日本国中苟も書を読んで居る処は唯慶応義塾ばかり」。

1868(慶応4)年6月

  • 福澤諭吉(32-33歳)、幕府老中・稲葉正邦より千俵取りの御使番として出仕するように要請されるも、退身届を提出。退官。

1868(明治元)年

  • 箕作秋坪(41-42歳)、浜町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)の津山藩江戸屋敷の一角を借り、私塾「三叉学舎」を創立。漢学、数学に加えて、幕末期にオランダ語に代わって習得が急務となっていた英語が教えられる。福沢7諭吉の「慶應義塾」と並び「洋学塾の双璧」と称される。東郷平八郎、原敬、平沼騏一郎、大槻文彦ほか、日本の政治・経済・教育を牽引する人材を輩出。

1869(明治2)年4月/5月

  • 柳田藤吉(30-31歳)、戊辰戦争で財を成し、社会に貢献したいと福澤諭吉・箕作麟祥に相談。私塾を起こすことを勧められ、洋学校「北門義塾」創立。この事業に賛同した三井家が、所有する早稲田の建物(元高松藩下屋敷)を提供。山東一郎・松本良順が学校を管理することに。

1869(明治2)年

  • 福澤諭吉(33-34歳)、熊本藩の依頼により、本格的な西洋戦術書『洋兵明鑑』を小幡篤次郎小幡甚三郎と共訳。

  • 福澤諭吉、妻・お錦の実家である土岐家と榎本武揚の母方の実家・林家が親戚であったことより、榎本武揚の助命に尽力。寺島宗則の紹介で官軍参謀長・黒田清隆と面会、赦免要求。

1870(明治3)年

  • 福澤諭吉(34-35歳)、新銭座の土地を近藤真琴に300円で譲渡。「攻玉社」移転。「慶應義塾」の移転先として、三田の旧島原藩中屋敷の土地払い下げを東京府に交渉。内大臣・岩倉具視の助力を得、実現。

1871(明治4)年

  • 福澤諭吉(35-36歳)、三田の地に「慶應義塾」移転。帳合之法など、講義を始める。

1871(明治4)年

  • 高島嘉右衛門(38-39歳)、スイス人カドレー、アメリカ人バラ兄弟など西洋人の教師を雇い、英仏独の3ヶ国語を教授、語学中心の私塾「藍謝堂(高島学校)」を横浜伊勢山下と入船町に開校。私財3万円を投じ、敷地は一万坪、学生1000人が収容できる大きな学校であった。福澤諭吉を招聘したが実現せず。代わりに「慶応義塾」の海老名晋、荘田平五郎小幡甚三郎濱尾新、日原昌造ら高弟を講師に推薦、派遣される。岡倉天心、寺内正毅、本野一郎、宮部金吾、星亨ら人材を輩出。貧しい学生には経済的援助も行う。

1871(明治4)年

  • 中村正直(38-39歳)、「天は自ら助くる者を助く」、明治維新後の文明開化の風潮の中、封建思想打破と共に近代的人間の確立を目的に『西国立志編』刊行。イギリスの著述家S.スマイルズ『自助論 Self-Help (1859)』翻訳書。その反響は大きく、福沢諭吉『学問のすゝめ』と並ぶ二大啓蒙書に。総発行部数100万部以上とされ、明治期を通して広く読まれる。

1872(明治5)年2月

  • 福澤諭吉「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」、『学問のすゝめ』初編刊行。1876(明治9)年11月25日にかけて順次刊行、17編出版をもって一応の完成をみる。初編のみ、小幡篤次郎共著。明治維新直後の日本人に対し、中世的な封建社会から近代民主主義国家への転換、欧米の近代的政治思想、民主主義を構成する理念、市民国家の概念など、平易な比喩を多用して説く。総発行部数300万部以上とされ、当時日本の人口が3,000万人程であったことから、全国民の10人に1人が手に取った計算に。​

1873(明治6)年7月

  • 森有礼(25-26歳)、アメリカより帰国。富国強兵のためには人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と考える。欧米で見聞した「学会」を日本で実現しようと、福澤諭吉加藤弘之中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪杉亨二・箕作麟祥らに働きかけ、日本初の近代的啓蒙学術団体となる「明六社」結成。初代社長に就任。会員には旧幕府官僚で、「開成学校」の関係者および「慶應義塾」門下生の官民調和で構成された。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派、日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族など参加。

1873(明治6)年

1873(明治6)年9月4日

  • 福澤諭吉(38歳)、岩倉遣欧使節団に随行した長与専斎の紹介で、文部卿・木戸孝允と会談。「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり」。

1873(明治6)年10月24日-10月25日

明治六年政変、征韓論に端を発した一大政変。政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞す。発端は、西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対し、その旨を伝える使節を幾度か派遣。また朝鮮においては、興宣大院君が政権を掌握、儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始め、日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるように。西郷隆盛は交渉よりも武力行使を前提に、朝鮮使節派遣を目論む。これに賛同したのが、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋、大隈重信大木喬任ら。反対したのが大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、黒田清隆ら。「岩倉遣欧使節団」派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、留守政府を預かっていた西郷隆盛らが急激な改革を起こし、混乱していたことが大久保利通らの態度を硬化させた。また、日本には朝鮮や清、ひいてはロシアと交戦できるだけの国力が備わっていないという戦略的判断、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという国際的立場より猛烈に反対、費用の問題なども絡め征韓の不利を説き、延期を訴える。

 閣議において、大隈重信、大木喬任が反対派にまわり、採決は同数に。しかし、賛成意見が通らない場合は辞任するという西郷隆盛の言葉に恐怖した議長・三条実美は即時派遣を決定。これに対し、反対派も辞表提出、辞意を伝える。明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、太政大臣・三条実美が過度のストレスにより倒れ、意識不明となる。代わって岩倉具視が太政大臣代理に。岩倉具視は派遣決定と派遣延期の両論を上奏。明治天皇は派遣延期の意見を採用、朝鮮使節派遣は無期延期の幻となった。

 西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣は辞表を提出。受理され、賛成派参議5名は下野。桐野利秋ら西郷隆盛に近く、征韓論を支持する官僚・軍人も辞職。更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷隆盛を咎めず、逆に西郷隆盛に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣退助・後藤象二郎に近い官僚・軍人も辞職。この政変が、後の士族反乱や自由民権運動の発端となる。

1873(明治6)年

  • 板垣退助(35-36歳)、明治六年政変、書契問題に端を発する度重なる朝鮮国の無礼に、世論が沸騰。率先して征韓論を主張するも、欧米視察から帰国した岩倉具視ら穏健派によって閣議決定を反故にされる(征韓論争)。これに激憤、西郷隆盛らと共に下野。世論もこれを圧倒的に支持、倣って職を辞する官僚が600名あまりに及ぶ。自身と土佐派官僚が土佐で自由民権を唱える契機となる。

1873(明治6)年

1874(明治7)年3月 - 1875(明治8)年

  • 森有礼(27-28歳)、「明六社」にてら機関誌『明六雑誌』発行。開化期の啓蒙に指導的役割を果たした。翌1875(明治8)年、太政官政府の讒謗律・新聞紙条例が施行。機関誌発行は43号で中絶・廃刊、事実上解散となる。後に、「明六社」は「明六会」となり、福澤諭吉を初代会長とする「東京学士会院」、「帝国学士院」を経て、「日本学士院」に至る。

1874(明治7)年4月10日

  • 板垣退助(36-37歳)、片岡健吉・山田平左衛門・植木枝盛・林有造らと共に、天賦人権を宣言。人民の知識の発達、気風の養成、福祉の上進、自由の進捗を目的に政治団体「立志社」結成。高知の自由民権運動の中心となる。また、近代的な教育・民権思想の普及を担う「立志学舎」創立。教員に、「慶應義塾」を卒業した江口高邦と深間内基、矢部善蔵を迎え、次いで土佐藩藩校教授だった塚原周造、久米弘行、森春吉が駆けつける。「慶應義塾」と同じカリキュラムが組まれ、フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーの文明史、高水準の政治学、経済学、歴史学、地理学などを教授。法律研究所や新聞縦覧所を置き、『高知新聞』を発行するなど多様なかつ教育を行う。

1874(明治7)年

  • 福澤諭吉(38-39歳)、明治六年政変で、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平が野に下るや、高知の「立志学舎」に「慶應義塾」門下生を教師として派遣。また、後藤象二郎の政治活動を支援、国会開設運動の先頭に立ち、『郵便報知新聞』に「国会論」と題する社説を掲載。

  • 福澤諭吉、板垣退助の愛国社から頼まれ、『国会を開設するの允可を上願する書』起草に助力。

1874(明治7)年6月 -

  • 福澤諭吉(39-歳)、簿記書を翻訳、日本最初の洋式簿記書『帳合之法』を「慶應義塾」出版局より刊行。複式簿記を提唱。

​1874(明治7)年10月

1875(明治8)年8月

  • 森有礼(27-28歳)、商業教育の必要を唱え、福沢諭吉の賛同を得て、東京銀座尾張町に私塾「商法講習所」開設。駐英公使を務めていた際、ハーバート・スペンサーから大きな影響を受けたと言われる。アメリアから帰国した矢野二郎もこれに参加する。​

1874(明治7)年

  • 福澤諭吉の高弟・和田義郎が、「慶應義塾」塾生で最も幼い者数名を三田の「慶應義塾」構内にある自宅に寄宿させ、夫婦で教育を行う。この「和田塾」が、「慶應義塾幼稚舎」の始まりに。

1874(明治7)年

  • 福澤諭吉(38-39歳)、地下浪人だった岩崎弥太郎と面会、山師ではないと評価。三菱商会に荘田平五郎や豊川良平といった「慶應義塾」門下を投入。また、後藤象二郎の経営する高島炭鉱を岩崎弥太郎に買い取らせた。​

1875(明治8)年

  • 荘田平五郎(27-28歳)、嘱望され、三菱商会に入社。有能な人材を実業界に供給するのが「慶應義塾」の役目と心得ていた福沢諭吉が、岩崎彌太郎を卓抜した実業家として一目も二目も置いていたことが根底に。また、当人も自分の才能を実業界で試したい気持ちが強かった。東京本店勤務、三菱汽船会社規則を策定。

1876(明治9)年2月

  • 福澤諭吉(41歳)、懇意にしていた森有礼の屋敷で寺島宗則や箕作秋坪らと共に、初めて大久保利通と会談。晩餐のあと、大久保利通が「天下流行の民権論も宜しいけれど人民が政府に向かって権利を争うなら、またこれに伴う義務もなくてはならぬ」と述べる。自身を民権論者の首魁のように誤解していると感じ、民権運動を暴れる蜂の巣に例えて、「蜂の仲間に入って飛場を共にしないばかりか、今日君が民権家と鑑定した福沢が着実な人物で君らにとって頼もしく思える場合もあるであろうから幾重にも安心しなさい」と回答。

1877(明治10)年11月

  • 福澤諭吉(42歳)、『分権論』刊行。廃藩置県を歓迎、「政権」と「治権」の全てを政府が握るのではなく、「治権」は地方に委ねるべきであるとする。廃藩置県を成立させた西郷隆盛への感謝と共に、地方分権が士族の不満を救うと論じる。

  • 福澤諭吉(42歳)、『丁丑公論』論説。西南戦争で西郷を追い込むのはおかしいと主張。

  • 福澤諭吉、『通俗民権論』・『通俗国権論』・『民間経済禄』など、官民調和を主張、初歩的な啓蒙を行う。自由主義を紹介する際、「自由在不自由中(自由は不自由の中にあり)」の言葉を用い、自分勝手主義へ堕することへ警鐘を鳴らす。

1877(明治10)年

  • 荘田平五郎(29-30歳)福澤諭吉『帳合之法』が提唱する複式簿記を採用し、郵便汽船三菱会社簿記法を纏める。これにより、三菱は大福帳経営を脱し、徐々に近代的な経営組織を確立。

1879(明治12)年12月

1879(明治12)年

  • 文部卿・西郷従道の発案に基づき、研究者による議論や評論を通じ学術の発展を図ることを目的とする政府機関「東京学士会院」が設立される。当時の日本を代表する知識人とされた加藤弘之、神田孝平、津田真道、中村正直、西周、福澤諭吉箕作秋坪が創立会員7名に。初代会長は、福澤諭吉

1879(明治12)年

1879(明治12)年

  • 矢野龍渓(27-28歳)福澤諭吉の推薦にて、牛場卓蔵、犬養毅、尾崎行雄と共に官吏として政府に送り込まれる。統計院太政官から内務権大書記官を経て、大蔵省入省。大蔵書記官、次いで会計検査局員に。従六位に叙せられる。

1879(明治12)年

  • 福澤諭吉(43-44歳)、狸橋南岸一帯(現在の港区白金)の土地を買収、別邸を設ける。この場所に、「慶應義塾幼稚舎」が移転。また東側部分が「土筆ケ岡養生園」(後の「北里研究所」、「北里大学」)となる。

1879(明治12)年

  • 福澤諭吉(43-44歳)、東京府会副議長に選出されるも、辞退。

1879(明治12)年秋 - 

  • 福澤諭吉(44-歳)、「慶應義塾」外の京橋南鍋町に「簿記講習所」設立。

1880(明治13)年

  • 福澤諭吉(44-45歳)、日本最初の実業家社交クラブ結成を提唱、「慶應義塾」出身者を中心に、「交詢社」創立。名称は、「知識ヲ交換シ世務ヲ諮詢スル」に由来。

1880(明治13)年

1880(明治13)年9月14日

1880(明治13)年12月 - 1881(明治14)年1月

  • 福澤諭吉(45-46歳)、参議・大隈重信邸で大隈重信伊藤博文、井上馨と会見。政府新聞『公布日誌』の発行を依頼される。その場での諾否を保留して数日熟考、「政府の真意を大衆に認知させるだけの新聞では無意味」と考え、辞退しようと翌1881(明治14)年1月に井上馨を訪問。しかし、井上馨が「政府は国会開設の決意を固めた」と語ったことで、その英断に歓喜。新聞発行を引き受ける。

  • 小泉信吉福澤諭吉より伊藤博文、井上馨の参議から要請された政府新聞『公布日誌』発行を引き受けたことを極秘裏に打ち明けられる。信頼厚く、「能く慶應義塾の精神を代表して一般の模範たるべき人物」と評される。

  • 中上川彦次郎福澤諭吉伊藤博文や井上馨より政府新聞『公布日誌』発刊を打診されるも、福澤諭吉に代わって断りを告げる。​

1881(明治14)年

  • 大隈重信、当時急進的過ぎるとされていたイギリス型政党内閣制案を伊藤博文への事前相談無しに、独自に提出。伊藤博文は大隈重信を警戒するように。また、「北海道開拓使官有物払い下げ問題」への反対集会が各地で開催される騒動が起きており、大隈重信もその反対論者であり、「慶應義塾」出身者も演説会や新聞でこの問題の批判を展開している者が多かった。政府関係者に大隈重信・福澤諭吉・「慶應義塾」陰謀説が浮上。明治十四年の政変が起こることに。

1881(明治14)年

  • 福澤諭吉(45-46歳)、明治十四年の政変に関わる一連の事件に当惑。伊藤博文と井上馨に宛て、違約を責める手紙を送る。2,500字に及ぶ人生で最も長い手紙となる。この手紙に対し、井上馨は返事を送ったが、伊藤博文は返答せず。数回にわたり手紙を送り返信を求めたが、伊藤博文からの返信はついになく、井上馨も最後の書面には返信せず。これにより、両政治家との交際を久しく絶つことになる。福澤諭吉は、伊藤博文と井上馨は初め大隈重信と国会開設を決意するも、政府内部での形勢が不利と見て途中で変節、大隈重信一人の責任にしたと理解。

1881(明治14)年1月

  • 福澤諭吉(45-46歳)、大隈重信と懇意の関係ゆえ、自由民権運動の火付け役として伊藤博文から睨まれ、危うい立場に。「慶應義塾」の自主独立を実現するため、塾生と共に『慶應義塾維持法案』を練り、『慶應義塾仮憲法』制定。渡部久馬八・門野幾之進・浜野定四郎の3人に経営を任せることに。

  • 『慶應義塾仮憲法』、塾長の選任について、「一、理事委員の協議を以て、現任教員中より一名を選び、之を慶應義塾々長とす。」・「一、教員、役員を定むるは、社頭、塾長の協議に任ず可し。」と定める。

1881(明治14)年1月

1881(明治14)年

明治十四年の政変、自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの「慶応義塾」門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。政府から追い出され下野した福澤諭吉「慶応義塾」門下生らは『時事新報』を立ち上げ、実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも「東京専門学校」を早稲田に開設。

1881(明治14)年

  • 福澤諭吉(45-46歳)、九鬼隆一は明治十四年の政変に組せず、文部省に残り、文明開化主義に反対する伝統主義的な教育政策の実施者となる。このため、九鬼隆一との関係が極度に緊張。(後に、和解)

1882(明治15)年3月1日​

  • 福澤諭吉(47歳)、五大新聞の一つとなる日刊新聞『時事新報』創刊。当初計画では、伊藤博文や井上馨の要請を受け、政府系新聞を作る予定であった。明治十四年の政変で大隈重信派官僚が失脚すると、計画頓挫。記者や印刷機械は既に準備していたため、「慶應義塾」出版局が独自に新聞を発行することに。「国権皇張」・「不偏不党」を掲げる。「唯我輩の主義とする所は一身一家の独立より之を拡めて一国の独立に及ぼさんとするの精神にして、苟もこの精神に戻らざるものなれば、現在の政府なり、又世上幾多の政党なり、諸工商の会社なり、諸学者の集会なり、その相手を撰ばず一切友として之を助け、之に反すると認る者は、亦その相手を問わず一切敵として之を擯けんのみ。」

1882(明治15)年

1882(明治15)年

  • 福澤諭吉(46-47歳)、訪日した金玉均やその同志の朴泳孝と親交を深めたことで、朝鮮問題に強い関心を抱くように。日本の軍備は日本一国のためにあるのではなく、西洋諸国の侵略から東洋諸国を保護するためにあると考える。朝鮮における清の影響力を排除することで日本が朝鮮の近代化改革を指導する必要があるとし、日本国内で最も強硬な対清主戦論者となる。

1889(明治22)年8月

  • 福澤諭吉(54歳)、「慶應義塾規約」制定。

1890(明治23)年

  • 小泉信吉(36-37歳)、「慶應義塾」に大学部を創設。私立の大学として基礎を固める。しかし、採点法の改正から普通科生徒の同盟休校が起こり、「慶應義塾」塾長を短期辞任に追い込まれる。

1890(明治23)年1月

1892(明治25)年​

  • 福澤諭吉(47歳)、ドイツ留学から帰国した北里柴三郎を受け入れる機関が日本になく、国家有為の才能を発揮できない状態にあった。この事態を憂慮、私財投じ、森村市左衛門、長與專齋らと共に私立「伝染病研究所」および結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」設立を支援。

1892(明治25)年

1893(明治26)年

1894(明治27)年

  • 福澤諭吉(58-59歳)、日本亡命中の金玉均が朝鮮政府に上海におびき出されて暗殺される事件があり、再び日本国内の主戦論が高まる。終始、時事新報での言論をもって、熱心に政府と軍を支持。日清戦争遂行を激励。戦費の募金運動を積極的に行い、自身で1万円という大金を募金。三井財閥・三井八郎右衛門、三菱財閥・岩崎久弥、渋沢財閥・渋沢栄一らと共に、戦費募金組織「報国会」を結成。

  • 福澤諭吉、日清戦争後の晩年も、午前に3時間から4時間、午後に2時間は勉強。また居合や米炊きも続け、無造作な老書生といった風の生活をおくる。

1901(明治34)年2月3日

1917(大正6)年

  • 北里柴三郎(63-64歳)福澤諭吉没後、長年の多大なる恩義に報いるため、「慶應義塾医学部」創設。初代医学部長、付属病院長に。教授陣に、ハブの血清療法で有名な北島多一や、赤痢菌を発見した志賀潔など、「北里研究所」の名だたる教授陣を惜しげもなく送り込む。終生無給で「慶應義塾医学部」の発展に尽力。​